「 変態の過程をできるだけ引き延ばしてみたい 」
■ 出社から1週間あまり。始発の浅草駅からは座れる上に乗車時間は20分程度なので、世の通勤生活者と比べて圧倒的に恵まれている(というかそういう条件を選んだので一方的に「恵まれた」わけでもないんだけど)だろうとは思うものの、それでも通勤は苦痛だ。
■ でもこれまで20年以上、通学も含めたらもっと(私は中学校も電車通学だった)、毎日自宅と職場(学校)の行き来を常時苦痛に感じていたわけではない。移動することによっていいことがある、という、たとえば仕事が充実して楽しいとか、学校で友人に会うのが楽しいとか、逆に職場や学校が嫌という、そういう感情や気分は置いておくとしても、通勤/通学は習慣化することでそれに伴う感覚が鈍化するのだろう。いちいちそこの摩擦や軋轢で苦痛に晒されないように体が順応する、ある意味自律神経化していく。そうじゃなきゃやってられない。外に出る時に服を着たり靴を履くのがつらい、左右の足を交互に動かして前に進むのを一歩ずつ意識するのがきつい、とかなったら外出さえままならない。だから通勤に限らず社会生活の慣習に順応できない人間は社会的な生活から外れざるを得ない。もちろん身体に障害を持つ方を特に言っているわけではなく、身体的に不自由のない人も含めた、そして自営や住み込みや通勤の必要がない人々(当然彼らにも社会生活において慣習化された行動はある)、社会と関わりを持つことで生きている人間一般として。
■ いま私は1年半のブランクを経て通勤生活を再開しているわけだが、その順応の過程を体感している。再開直後は私は通勤者ではなかった。通勤のために移動はしていても、まだ社会から外れた者として通勤者の外部にいるように感じていた。自宅を出て駅まで行って電車賃を払い、多くが通勤者と思われる他人とともに乗車して、数十分かけて職場まで移動する、という行動にごく単純に億劫さ、苦痛を感じていた。その苦痛は行動そのものに対する億劫さ、面倒さ、「毎日動くの疲れるわ〜」というそんな感じの、肉体寄りのものだ。
■ それが5日ほど続いた頃に少し変化してきた。それまであまり気にならなかった電車の客、通勤者あるいは仕事中と思われる人々を意識するようになってきたのだ。「隣にいるこいつウザイ」「奇妙なファッションだけど職業はなんだろう」「高そうなスーツ。でも仕事できなさそう」「新入社員ってなんでうっとおしいんだろうか」「きれいな人だなあ、多少きつい性格でもブサイクよりは仕事もうまくいくんだろうなあ」とか、まあ、まったく余計なお世話だよっていう勝手なことを思ってるわけですが、このときに私は通勤者の外部から通勤者の内部の人間になりつつあるのを感じた。他者としての壁が壊れたと思った。そして私も通勤者となることで通勤はまもなく習慣化され、「左右の足を交互に動かすこと」を意識しなくなっていくのだろうと。しばらく乗らないうちに忘れてかけてた自転車の乗り方が体の中から自律的に出てきたような感じでもあった。
■ だいたいが私は電車や公共の場にいる他人の言動にイライラする者で、つまり必要以上にまわりの人を意識しがちなのだけれど、通勤再開当初はそんな意識をする余裕もなかった。ただただ通勤が肉体的につらかった。それと私はまだ通勤者ではない、彼らとの生活に大きな隔たりを持った者であるから、関わりがない以上は意識しないし気にもならなかった。むしろドロップアウトしたことに後ろめたさがあって、毎日通勤して働く彼らに畏敬の念をもっていたくらいで、だからこちらから意識的になることはないどころか、身につまされるから意識したくなかったし、意識されたくもない、私はあなた方と関係がない人間なのだという気持ちが働いていた。意識するということは存在が交差することだ。たとえ一方的であっても意識すれば相互の関係性は生まれる。純粋な観察者などありえない。それを意識し言及する者は外部から内部へとすでに踏み込んでいる。「隣の男、体温高すぎ…」それが私は再び習慣に身をやつし感覚を鈍化させた、通勤する者になろうとしている瞬間だった。
■ 昆虫の変態や蛇の脱皮の過程を目撃することは、気持ち悪かったりもするけれど生物の神秘にわくわくする瞬間でもある。非通勤者から通勤者の変態の過程をできるだけ引き延ばしてみたいと思う。せっかくのチャンスだ、「通勤は苦痛である」といつまでも感じ続けていたい。外部から内部への往還、そして外部のその外へ。
■ いったい何をぐだぐだと書いているのか(いつものことですが)というと、通勤を再開したことで習慣の顕在化について考えていたのだった。習慣に鈍化した者は殺される世の中になったんじゃないか。とりもなおさず、それは社会システム全般との関わり方、態度につながる話だ。壮大だろ〜。でもほんとはなんにも考えてないんだぜ〜。暑いからパンツ一丁で猫をなでながらこれを書いてるんだぜ〜。
なー、ゴマ。

「 社会復帰直後 」
■ 数年前からココをのぞいていただいている方やリアル知人は概ね事情をご存じかと思いますが、私1年余り利潤交換を伴う労働活動を完全に断っており、社会から距離を置いた生活を続けてまいりましたが、先週より社会の浅瀬に足先を浸し始めました。約1年半のドロップアウトで見えてきたもの、結局わからないままのこと、いろいろな思いがありますが、まだ数日ながら社会の風景は変わったなあと感じています。変わったのは主体たる私なのか、風景としての社会なのか、両方なのか。少しずつ沖に向かって漕ぎ出しながらやるべきことをやろうと思っています。のんびりと、しかし速度を上げて。時間がもうないからさ。(ちょっと間が空いちゃったけど小説っぽいものも書いてます。また載せます。)
■ この1年、たくさん観たなあ、ライブ、演劇、もろもろ。時間的制約で数は減ってもこれからも観続けるよ。こういうことを現実逃避とか言う人もいるけど、私はそうは思っていないのだ。現実世界とは断ち切られたかのような時間があったとしても逃避ではない。おおげさに言えば闘争ですよ、現実との。ちがいますかね。うまく説明できないのだけれど、私はまだそう信じてるよ。ただ作品を闘争の手段にしてはいけない。それじゃ現実のほうのやり口と一緒だ。闘争は観る/観られるという行為、その運動と運動の先/思考と行動にあるべきでしょ。だからやっぱりメッセージは嫌い、そういうのには乗らない、おれに説明なんかするな、ぜんぶ無視してやる、見つけたらこっそり踏み潰す。わからないこと書いてすみません。社会復帰直後で少々疲れております。
■ マームとジプシーの連続企画、『マームと誰かさん・ひとりめ/大谷能生さんとジプシー』@SNACを観た。<記憶/記録、再生、現在のループ。未来(0.001秒後という超々近未来から1万年後の彼方の未来まで)から見た私たちは亡霊として生きている。一度鳴らされた音は消えない、という現在の肯定をこの目と耳と肌で見ました。すっとぼけ方が粋。会場で販売されているCDや劇中に青柳さんが撮った写ルンですやおそらく残されたであろう作品の記録映像、そしてあの場に居合わせた人の記憶を含めてひとつ/無数の作品。当然ながら大谷能生『Jazz Abstractions』とも通底。そして『サラサーテの盤』、『ツィゴイネルワイゼン』も連想。記録された亡霊は果たして亡霊か。なぜあの「音」は気味が悪いのか、なぜ「現在」を揺さぶるのか。>とツイッターで書いた。「音」を起点としたいまの「生」のあり様、その肯定。青柳いづみ、素晴らしかった。これについてはまたいずれ。
■ なにしろ疲れてる。まだ1日3時間程度の出社だというのに。闘争も何もあったもんじゃないです。
なー、ゴマ。

「 反復は 」
■ 内容と形式を分けて考えるのは野暮なもんだと思うが、内容と形式に分けて考えられてしまうものはたいていたかが知れている。かなりえらそうなこと言ってますが。アンゲロプロス『狩人』を観て、それから感想を書いてみて、そんなことをあらためて考えていた。まだ『狩人』の余波のなかにいます。
■ 先日Qという劇団の新作『地下鉄』を観た。現在の若い、20代半ばくらいかな(俳優も役柄も)、それくらいの年齢の男女の心象を自意識のレベルで描いた作品で、センスがよくてかっこよく、美術もよかったし、おもしろかった。このおもしろさも内容と形式を分けるものではなくて、全部ひっくるめて、目の前に出現してるものと自分の置かれている状況がおもしろかったのだけれど、この作品では(Qは初見なので過去2作は不明)台詞やシーンの反復が行われて、「形式」についてちょっと考えてしまった。
■ かつてチェルフィッチュが作品に反復を取り入れたときは従来の演劇のスタイルに疑義を投げかける「反演劇」の意図があったと思う。従来の硬直したスタイルを疑い、自分たちの表現を立ち上げるために反復を発見したんじゃないか。第三舞台など80年代の演劇に見られたある種の高揚をもたらすクライマックスでの台詞の反復とはまったくちがう質のものだ。チェルフィッチュの反復には演劇というフィクションの在り方を問うとともに、台詞やシーンを観客に定着させるために同じことを繰り返したっていいじゃん、という必然があった。直線的時間ではなく円環的時間が生むリアリティは演劇の内側からなされたことにおいて「脱演劇」ではなく「反演劇」という形式をもったきわめて演劇的な行いだったと思う。演劇の原理を追求することで演劇の更新をしたというのが私の見方で、だから表面的な新しさだけで演劇らしくないからダメとかイイとか、そういう意見はしっくりこなかった。
■ それから私がもうひとつ知っている演劇における反復はマームとジプシーにおけるそれ。当初はスタイルに目を奪われて(なにしろマームの反復は観る者の肉体を揺さぶるほどのただごとならない反復なので)チェルフィッチュのスタイルだけを継いでいるのかと思ってしまったのだけれど、当初というのは初見だった『Kと真夜中のほとりで』の最初の数分間のことで、いま書いたこちらの肉体を揺さぶる反復(作演出の藤田貴大氏はマームの反復を「リフレイン」と呼んでいる)を目の当たりにして、チェルフィッチュとはまったく別のところに到達しているのがわかった。こんなことは演劇に詳しい頭のいい人たちがすでにいろいろなところで書いたり発言しているにちがいないけれど、執拗な反復によるズレと俳優の肉体の変調、目前で行われるその運動に観る者が同調したときに生まれる様々な感情が身体と空間で結ばれる(つまりそれは記憶の現出につながっている)ことにおいて、マームの反復(リフレイン)もまた演劇的なものだと考えるが、チェルフィッチュの反復が演劇表現の新しい回路を拓いたとしたら、マームは新しい装置を積んだように感じたのだった。
■ しばしばマームの反復(リフレイン)はエディットやカットバックという主にダンスミュージックにおける音楽的手法になぞらえられて、「グルーヴ」という形容もあの体感的経験とはずれてはいないように思える。チェルフィッチュの反復にもミニマルミュージックの円環構造が重ねられるが、マームのそれにはもっと感覚とダイレクトな音楽に近い作用がある。さらに俳優が同じシーンを立ち位置を変えて見せる手法は映画のカット割り、カメラのスイッチを明らかに意識したものだ。チェルフィッチュが演劇の原理を掘り下げることで更新したとすれば、マームは拡張することで新たな表現を獲得したんじゃないか。
■ で、Q『地下室』のことなのだけれど、私にはこの作品が反復を採用していた必然のもとがわからなかったのだった。悪い意味で言ってるのではなく。だいだい「わからないからよくない」なんていう傲慢な気持ちを私は持ち合わせていないし。わからないのがよくないとしたら、よくないのはわからないその人自身だ。わからないことをよくないとする考えも、わからないことそのものも、作品側ではなく受け手の問題で、そういう人は自分にわかることだけを楽しんでいればいいと思う。
■ 話がずれてしまった。なぜ反復にこだわるかというと、それはいままで書いてきたように近年の演劇において反復は刷新の手法としてトピックになっていて(どこで話題かは知らないので私がそう感じているだけかもしれない)、つまりそれを採用することは流行りにのるような、チェルフィッチュやマームと同列に語るならば、彼らが従来の演劇話法を窮屈に感じたかつまらなく感じたか、とにかく刷新した(「反復」ということだけで言うならいま現在彼らはもうその先に行っている)のに対して、すでに従来の話法になっている反復で充足しているうえに、そのスタイルをファッションとして捉えているようにも見える。しかし『地下鉄』のそれはそうとも言えないのだった。もしファッションだったら、たぶん私は騙されない。それくらいのことなら私にだってわかる。そこで用いられた台詞とシーンの反復は空間と時間軸を錯綜させ、それが現実(作品内の)なのか妄想なのか独白なのか、境界を消していく効果は果たしていたし、何より見ていて心地がよかった。手際が端正というか理知的というか、表面だけを繕った作品にありがちな不自然に<ON>な感じ、これみよがしな気配がまったくなかった。
■ ということは話法が必然として作品に嵌まっていた、ということで彼らはことさらに新しい演劇を創出したくてやってるようにも思えなかったしそれならそれでいいのだけれど、何が言いたかったかというと、いま書きながらようやく自分でもわかってきたのは反復という形式がなぜいまなお効果を持つのか、それがわからないんだよなあということを『地下鉄』を観て感じたのだった。反復はもういいよ、という人もいるだろう。しかし私にはまだまだ有効だった。むしろQでは可能性さえ感じた。アンゲロプロスの長回しが古びることなく有効であるのと似た必然が演劇におけるこの形式にはあるのだろうか。もちろん解答はなく、ぐだぐだのまま話はここでいったん終わり、そしてまた続くわけですが。
■ Qは主宰の市原佐都子が作演出を手掛けるカンパニー(ユニット?)。『地下鉄』上演前に藤原ちから氏によって行われたこのインタビューがすこぶるおもしろい。市原さんと俳優の吉田聡子さんはマームとジプシーの藤田氏や青柳いづみと同じ桜美林大学出身で、吉田さんはマームの多くの作品に出演している。そのマームの吉田聡子さんが好きでQを観に行ったのだけれど、Qでも吉田さんはよかったし、マームとはちょっとちがったポップな面も見せていた。彼女はなんでもない佇まいなのにどこか官能性を発する俳優で、それは顔や体のどこがというより、舞台に立つとそれが現れる(ノイズのようなもの)としかいいようがないのだけれど、マームで感じていた声の強さ、発話の強度はQ『地下鉄』でも素晴らしかった。
■ 余波といえば、先週末に行ったmuffinのレコ発前夜祭、muffin、加藤りま、ゑでぃまぁこんが出た七針でのライブがとてもよくて、いまもその余波は続いている。ライブもまた声を含めた表現する身体を感じたい、それを自分の身体で直に目撃したいから行くのだなということを確認した夜だった。
なー、ゴマ。

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