「目の前で見ているものとは別の」

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チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を
昨日横浜のSTスポットで観てきた。

たとえば、小説を読むのは行為としては
活字で印刷された文字を見ることにすぎない。
いまはパソコンや携帯のモニターで「読む」人も多いだろうけど。
いずれにしても行為としては
文字(あるいは言葉)を脳にインプットしているだけで、
そこから私たちはそれぞれ勝手にイメージを広げていく。
同じように目の前で現実に存在してる人が
実際に喋って動いている姿を見ながら、
目の前でいま見ているものとは別のイメージを描く。
岡田利規氏が言う、舞台上の行為は演劇ではなく、
演劇のための条件にすぎず、演劇とは舞台上の行為を通して
観客の中に生み出されるなにか、ということ、
それを「受精」という単語に象徴させ、
さらに「知覚(perceive)から想像(conceive)へ」と
補足された意図はとても鮮やかに
達成されていたんじゃないでしょうか。
これまで以上に徹底して感情移入を回避した
叙事的な語りでありながら、ズレと間で、
沸々と情動を生起させる(想像を刺激する)
相変わらずかっこいい舞台だった。
そのような方法によって、こちらに向けられた「幸せ」に関する考察、
<彼は幸せな人です>という紋切り型な神の視点からはじまり、
タイトルの<わたしたちは無傷な別人であるのか?>という
現実世界での観客それぞれの意識に結ばれていく
1時間40分をかけての問い。
その問いがあまりにシンプルかつストレートで、
おおげさに言うと、ちょっとまだ動揺しているのだった。
切れ味が良すぎてパンチが見えなかったボディブローを受けたように。
あるいは落語『首提灯』の首を斬られたことに気づかない主人公のように。

チェルフィッチュのいわゆる現代的若者口語体は
手段にしかすぎないんだろうと、わかってはいたけれども、
今回それを実感した。なぜか清々しいような気分で。
たぶんシンプルで分かりやすい内容の今作品では、
舞台で表象されているのはすべて言語にすぎず、
言語それ自体に懐疑的に向き合う地点から
演劇をつくっていることが、
いっそう露になっていたからだと思う。
そういう意味では岡田利規氏は
とても真っ当な前衛であり真ん中の表現をする人だと思った。
言語それ自体に懐疑的、なんていうより、
着たい服がないから自分でつくってる、というくらいの
言い方のほうが合ってるかもしれないけど。

その昨日のこと、チェルフィッチュを観たあと、
中華街で食事をした横浜からの帰り、
山谷堀公園のグレはちに会った。
エサやりの人と思ってか、そばに寄ってきたので、
頭を撫でると肌全体にボツボツと大きな湿疹ができており、
毛はカサカサで、体は以前に増して痩せ、胸には傷があった。
何より顔が険しく厳しい表情になっていて、
どうやら風邪も引いているようだった。
気持ち良さそうにするので、何度も頭を撫でていると、
ニャーニャーと声を上げながら、黒ブチが近づいてきた。
見ると左目がなかった。黒ブチもエサだと思ってきたのだろう。
その様子から面倒を見ている人はいるであろうと
推測されたことにすがって、振り返らずにその場を去った。

幸せの外側は幸せでないものに囲まれている。
幸せはそのようにして成り立っている。
家に帰って暖かい部屋でごろごろ唸るゴマを撫でながら、
『わたしたちは無傷な別人であるのか?』での問いを反芻。

本日は休日出勤。思うようには進まなかったけど。
働かないよりはよかった、という程度。

なー、ゴマ。d0075945_234595.jpg
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by gomaist | 2010-02-22 02:49 | 演劇


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