「 ゾウガメ 」
■ チェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』を神奈川芸術劇場で観てきました。『わたしたちは無傷な別人なのか?』からまた新たな方法へ。これまでの手法がリニアなモチーフによるミニマルミュージックだとしたら、今作はポリフォニックなアプローチのアヴァンポップのようだと思いました。なんかわかりにくいざっくりしたたとえですけど(実際に劇中で使われていた音楽はイーノのエアポートや渋谷慶一郎のピアノ曲でした)。ある事象や主張にさまざまな角度から光を当てる反復による語りが従来のチェルフィッチュだとしたら、ある一点の思いなり考えを多層的に語ってみせたのが今作の方法だったと思います。ここにおいていよいよ物語は起動されません。関係性から生まれる何かよりも(「関係」は後景に、あるいは舞台と客席の間に大きく横たわっています)、思索をめぐる何かにフォーカスされた演劇です。
■ 日常を愛でることへの異議。言ってみればそれだけが、多くのノイズ(言葉、仕草、肉体、映像、音…)のポリフォニーによって表現されたときに、直接手づかみでは取れないようなカタチの問いになってしまうことに感動いたしました。その場ではとても食べ切れない。また、小さな物語が大きな物語につながっていること、日常が世界と地続きになっていること、それを「当たり前じゃねえか」と前提として言い切ってしまったことや比較的ベタな表現が散見したことで、チェルフィッチュがストレートプレイに正面から勝負を挑んできたのかという印象も受けました。もちろん本来のストレートプレイであるわけもないし、今作の核はいままで以上に「点」の問いではありましたが、「演劇」的な発語と仕草に疑義を申し立てることで新しい風景を舞台上に起ち上げて来た彼らが、今作においてそのスキルと方法論をビルドアップして、「演劇」全体、世界全体を射程距離においたように思えたのはハコが出来立ての大きな劇場だったせいも、少しはあったかもしれません。でも、どこかチェルフィッチュは踏み絵的な存在だったのが、もはやそういうレベルのものではないということが『ゾウガメ』ではっきりしたと思います。
■ じつは途中、あまりにも静的な間のせいで、数十秒意識が飛んでしまい、つまり一瞬目を開けたまま寝てしまったのだけれども、それだけが理由ではなくて、『ゾウガメ』は出来ればもう一度観たいです。いまの私の印象だと『無傷な別人』が前後の作品のなかでぽっかりと浮いてしまっている、もしくは空白のように口を開けているように感じて、『無傷な別人』がとても好きだったのもあって、毎回新しいことをしたいとおっしゃる岡田氏であるからいまさら身を乗り出すこともないかとは思いつつも、『ゾウガメ』がこれまで以上に前作を更新していると感じたのはまちがっていないか、そしてチェルフィッチュは今回何を提示して、どこに向かおうとしているのかを、いま一度考えてみたいと思ったのでした。
■ もうひとつ。岡田氏の朝日新聞「ニッポンの若者」を読んだときにも、登場人物である映像の男=山懸太一氏としか思えなかったように、チェルフィッチュは岡田利規の頭のなかにあることを、山懸太一が舞台の上で具現化している、とずっと感じていて、やっぱり今回もそれはそうだったのだけれど、いつもとちがってすべての役者がほぼ全編にわたって舞台上にいるというせいもあり、岡田氏の「肉体」は山懸太一だけではなく、役者全員になったと思いました。常に舞台上でほぼすべての役者が動いていた、それももう一度観てみたい理由のひとつです。
■ なんとなく批評づらで書いてしまったけど、もちろん以上はただの感想です。もっと感想っぽいことを言うと、夢のなかでカノジョが死んでいて、その悲しさを抱えたまま生きていくことに生きる実感を感じる、というところ、それを5人の役者がそれぞれに演じる(しつこいようですがチェルフィッチュ的に演じる)シークエンスには胸がつまりました。そのカノジョが現実世界で日常の捉え方に異議を投げかけるんだよな。そうかそうか。あー、やっぱもう一回観たい。
■ その他、覚え書き。/舞台装置として配されたスチールの枠が照明で色を帯びたり影をつくったりするのが美しかった。/映像の使い方が単純なように感じたのだけれど「いつ」「何が」映っていて同時に舞台上の役者は何をしていたのか、使い方よりもそっちのほうが重要だったかもしれない。/日常の象徴である椅子が枠のこちら側に現れる意味、250年の生涯を終えて横たわるカレ=ゾウガメ=パイプ椅子。/棺としてのキャスター付き箱。/音。とくに繰り返し落とされる洗濯バサミ、床に吹き付けられたスプレーの水で靴が擦られる音。/肉体をカリカチュアや表象の装置としてでなく即物的な肉体として扱っていた、せつないという感情が肉体上にどのように表われるか、というあの場面の話法の革新性。/松村翔子の椅子の反復動作が内側に向いた悲しいローザスみたいで良かった。/山懸さんは安田大サーカスの団長に似ている。/会場でお見かけした飴屋氏のオーラがはんぱなかった。別の場所で2度目が合い、2度ともどきりとした。/やっつんもいた(オザケンのときは斜め後ろの席にいました)。/やっぱり横浜(日本大通り駅)は遠い。/あのやけに立派な劇場、いる?よその自治体に余計なお世話ですが。
なー、ゴマ。
by gomaist
| 2011-02-14 01:52
| 演劇