「 反復は 」


■ 内容と形式を分けて考えるのは野暮なもんだと思うが、内容と形式に分けて考えられてしまうものはたいていたかが知れている。かなりえらそうなこと言ってますが。アンゲロプロス『狩人』を観て、それから感想を書いてみて、そんなことをあらためて考えていた。まだ『狩人』の余波のなかにいます。

■ 先日Qという劇団の新作『地下鉄』を観た。現在の若い、20代半ばくらいかな(俳優も役柄も)、それくらいの年齢の男女の心象を自意識のレベルで描いた作品で、センスがよくてかっこよく、美術もよかったし、おもしろかった。このおもしろさも内容と形式を分けるものではなくて、全部ひっくるめて、目の前に出現してるものと自分の置かれている状況がおもしろかったのだけれど、この作品では(Qは初見なので過去2作は不明)台詞やシーンの反復が行われて、「形式」についてちょっと考えてしまった。

■ かつてチェルフィッチュが作品に反復を取り入れたときは従来の演劇のスタイルに疑義を投げかける「反演劇」の意図があったと思う。従来の硬直したスタイルを疑い、自分たちの表現を立ち上げるために反復を発見したんじゃないか。第三舞台など80年代の演劇に見られたある種の高揚をもたらすクライマックスでの台詞の反復とはまったくちがう質のものだ。チェルフィッチュの反復には演劇というフィクションの在り方を問うとともに、台詞やシーンを観客に定着させるために同じことを繰り返したっていいじゃん、という必然があった。直線的時間ではなく円環的時間が生むリアリティは演劇の内側からなされたことにおいて「脱演劇」ではなく「反演劇」という形式をもったきわめて演劇的な行いだったと思う。演劇の原理を追求することで演劇の更新をしたというのが私の見方で、だから表面的な新しさだけで演劇らしくないからダメとかイイとか、そういう意見はしっくりこなかった。

■ それから私がもうひとつ知っている演劇における反復はマームとジプシーにおけるそれ。当初はスタイルに目を奪われて(なにしろマームの反復は観る者の肉体を揺さぶるほどのただごとならない反復なので)チェルフィッチュのスタイルだけを継いでいるのかと思ってしまったのだけれど、当初というのは初見だった『Kと真夜中のほとりで』の最初の数分間のことで、いま書いたこちらの肉体を揺さぶる反復(作演出の藤田貴大氏はマームの反復を「リフレイン」と呼んでいる)を目の当たりにして、チェルフィッチュとはまったく別のところに到達しているのがわかった。こんなことは演劇に詳しい頭のいい人たちがすでにいろいろなところで書いたり発言しているにちがいないけれど、執拗な反復によるズレと俳優の肉体の変調、目前で行われるその運動に観る者が同調したときに生まれる様々な感情が身体と空間で結ばれる(つまりそれは記憶の現出につながっている)ことにおいて、マームの反復(リフレイン)もまた演劇的なものだと考えるが、チェルフィッチュの反復が演劇表現の新しい回路を拓いたとしたら、マームは新しい装置を積んだように感じたのだった。

■ しばしばマームの反復(リフレイン)はエディットやカットバックという主にダンスミュージックにおける音楽的手法になぞらえられて、「グルーヴ」という形容もあの体感的経験とはずれてはいないように思える。チェルフィッチュの反復にもミニマルミュージックの円環構造が重ねられるが、マームのそれにはもっと感覚とダイレクトな音楽に近い作用がある。さらに俳優が同じシーンを立ち位置を変えて見せる手法は映画のカット割り、カメラのスイッチを明らかに意識したものだ。チェルフィッチュが演劇の原理を掘り下げることで更新したとすれば、マームは拡張することで新たな表現を獲得したんじゃないか。

■ で、Q『地下室』のことなのだけれど、私にはこの作品が反復を採用していた必然のもとがわからなかったのだった。悪い意味で言ってるのではなく。だいだい「わからないからよくない」なんていう傲慢な気持ちを私は持ち合わせていないし。わからないのがよくないとしたら、よくないのはわからないその人自身だ。わからないことをよくないとする考えも、わからないことそのものも、作品側ではなく受け手の問題で、そういう人は自分にわかることだけを楽しんでいればいいと思う。

■ 話がずれてしまった。なぜ反復にこだわるかというと、それはいままで書いてきたように近年の演劇において反復は刷新の手法としてトピックになっていて(どこで話題かは知らないので私がそう感じているだけかもしれない)、つまりそれを採用することは流行りにのるような、チェルフィッチュやマームと同列に語るならば、彼らが従来の演劇話法を窮屈に感じたかつまらなく感じたか、とにかく刷新した(「反復」ということだけで言うならいま現在彼らはもうその先に行っている)のに対して、すでに従来の話法になっている反復で充足しているうえに、そのスタイルをファッションとして捉えているようにも見える。しかし『地下鉄』のそれはそうとも言えないのだった。もしファッションだったら、たぶん私は騙されない。それくらいのことなら私にだってわかる。そこで用いられた台詞とシーンの反復は空間と時間軸を錯綜させ、それが現実(作品内の)なのか妄想なのか独白なのか、境界を消していく効果は果たしていたし、何より見ていて心地がよかった。手際が端正というか理知的というか、表面だけを繕った作品にありがちな不自然に<ON>な感じ、これみよがしな気配がまったくなかった。

■ ということは話法が必然として作品に嵌まっていた、ということで彼らはことさらに新しい演劇を創出したくてやってるようにも思えなかったしそれならそれでいいのだけれど、何が言いたかったかというと、いま書きながらようやく自分でもわかってきたのは反復という形式がなぜいまなお効果を持つのか、それがわからないんだよなあということを『地下鉄』を観て感じたのだった。反復はもういいよ、という人もいるだろう。しかし私にはまだまだ有効だった。むしろQでは可能性さえ感じた。アンゲロプロスの長回しが古びることなく有効であるのと似た必然が演劇におけるこの形式にはあるのだろうか。もちろん解答はなく、ぐだぐだのまま話はここでいったん終わり、そしてまた続くわけですが。

■ Qは主宰の市原佐都子が作演出を手掛けるカンパニー(ユニット?)。『地下鉄』上演前に藤原ちから氏によって行われたこのインタビューがすこぶるおもしろい。市原さんと俳優の吉田聡子さんはマームとジプシーの藤田氏や青柳いづみと同じ桜美林大学出身で、吉田さんはマームの多くの作品に出演している。そのマームの吉田聡子さんが好きでQを観に行ったのだけれど、Qでも吉田さんはよかったし、マームとはちょっとちがったポップな面も見せていた。彼女はなんでもない佇まいなのにどこか官能性を発する俳優で、それは顔や体のどこがというより、舞台に立つとそれが現れる(ノイズのようなもの)としかいいようがないのだけれど、マームで感じていた声の強さ、発話の強度はQ『地下鉄』でも素晴らしかった。

■ 余波といえば、先週末に行ったmuffinのレコ発前夜祭、muffin、加藤りま、ゑでぃまぁこんが出た七針でのライブがとてもよくて、いまもその余波は続いている。ライブもまた声を含めた表現する身体を感じたい、それを自分の身体で直に目撃したいから行くのだなということを確認した夜だった。




なー、ゴマ。d0075945_14173415.jpg
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by gomaist | 2012-05-09 14:38 | 演劇


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