「 社会復帰直後 」
■ 数年前からココをのぞいていただいている方やリアル知人は概ね事情をご存じかと思いますが、私1年余り利潤交換を伴う労働活動を完全に断っており、社会から距離を置いた生活を続けてまいりましたが、先週より社会の浅瀬に足先を浸し始めました。約1年半のドロップアウトで見えてきたもの、結局わからないままのこと、いろいろな思いがありますが、まだ数日ながら社会の風景は変わったなあと感じています。変わったのは主体たる私なのか、風景としての社会なのか、両方なのか。少しずつ沖に向かって漕ぎ出しながらやるべきことをやろうと思っています。のんびりと、しかし速度を上げて。時間がもうないからさ。(ちょっと間が空いちゃったけど小説っぽいものも書いてます。また載せます。)
■ この1年、たくさん観たなあ、ライブ、演劇、もろもろ。時間的制約で数は減ってもこれからも観続けるよ。こういうことを現実逃避とか言う人もいるけど、私はそうは思っていないのだ。現実世界とは断ち切られたかのような時間があったとしても逃避ではない。おおげさに言えば闘争ですよ、現実との。ちがいますかね。うまく説明できないのだけれど、私はまだそう信じてるよ。ただ作品を闘争の手段にしてはいけない。それじゃ現実のほうのやり口と一緒だ。闘争は観る/観られるという行為、その運動と運動の先/思考と行動にあるべきでしょ。だからやっぱりメッセージは嫌い、そういうのには乗らない、おれに説明なんかするな、ぜんぶ無視してやる、見つけたらこっそり踏み潰す。わからないこと書いてすみません。社会復帰直後で少々疲れております。
■ マームとジプシーの連続企画、『マームと誰かさん・ひとりめ/大谷能生さんとジプシー』@SNACを観た。<記憶/記録、再生、現在のループ。未来(0.001秒後という超々近未来から1万年後の彼方の未来まで)から見た私たちは亡霊として生きている。一度鳴らされた音は消えない、という現在の肯定をこの目と耳と肌で見ました。すっとぼけ方が粋。会場で販売されているCDや劇中に青柳さんが撮った写ルンですやおそらく残されたであろう作品の記録映像、そしてあの場に居合わせた人の記憶を含めてひとつ/無数の作品。当然ながら大谷能生『Jazz Abstractions』とも通底。そして『サラサーテの盤』、『ツィゴイネルワイゼン』も連想。記録された亡霊は果たして亡霊か。なぜあの「音」は気味が悪いのか、なぜ「現在」を揺さぶるのか。>とツイッターで書いた。「音」を起点としたいまの「生」のあり様、その肯定。青柳いづみ、素晴らしかった。これについてはまたいずれ。
■ なにしろ疲れてる。まだ1日3時間程度の出社だというのに。闘争も何もあったもんじゃないです。
なー、ゴマ。
by gomaist
| 2012-05-14 17:00
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