人気ブログランキング | 話題のタグを見る

「 リアルすぎる幻のようだ/『マームと飴屋さん』の感想4 」


■ 本日は6月26日。梅雨とは思えないさわやかでいい天気だった。いつ終わるとも知れない6月3日『マームと誰かさん・ふたりめ/飴屋法水さんとジプシー』(以下、『マーム×飴屋』)の感想をのろのろ書き継いでいるうちに、マームとジプシーは次の本公演を打ってすでに終わらせていたりする。藤田貴大氏の母校である桜美林大学に付設されたホール(浅草から淵野辺はなかなか遠かったです)で行われた『ドコカ遠クノ、ソレヨリ向コウ 或いは、泡ニナル、風景』についてはこの感想のなかでも触れるかもしれないが、それでは今回も『マーム×飴屋』の感想を、続け、まーす。

■ 前回書いた青柳いづみの台詞とは前後するが、開演して最初に言葉を発したのは飴屋法水だった。舞台上にはいたものの、ここで飴屋さんは音響を担当するだけではなく(飴屋さんは身体パフォーマンスやインスタレーション、演出などいろいろな表現を行うけれど、10代から状況劇場に参加、キャリアのはじまりには音響を担当していた)、演者としても参加するのだなとわかる。飴屋さんは音響機材の席に座ったまま俯いてマイクを手にして言った。

■ 「昨日な、蝉がな、木の上で鳴いていたと、小娘が言うとった」「でも小娘は、昨日より昔のことは、ぜんぶ“昨日”と言うから、本当に昨日なのか、いつのことかはわからない」

■ 正確な台詞ではないがこのような文句を飴屋さんは繰り返し低くゆっくりと発するのだけれど、「な」を付けて区切る言葉遣いも奇妙な響きで、それは何かこの世の人の声ではないようにも聞こえた。誰かを弔っているような、此岸から彼岸へ向けた声のようにも、彼岸から此岸を懐かしむ声のようにも聞こえて、声そのものに寂寥感はあっても、感情が見えない、人に非ざる者の言葉のようで、一気に空間が劇的な空気に満ちていく。(誰の者とも思えない言葉から私は昔の詩人など文学作品からの引用かと想像したのだけれどどうやらそれは違ってた。)

■ その間も会場の外には通行人やクルマが行き来して、たいていはこちらを見るし、歩を緩めたり立ち止まったりして見ていく人もいる。それは上演中ずっと続いていたことで、時には学校帰りの子どもが会場のなかにまで入ってきたりもして、内部と外部の境界はどこかにありながらも溶け合っていた。

■ 飴屋法水の異界のモノローグに続いて「えーっと、、」と大破したクルマの席に立ち上がった青柳いづみが「演劇をはじめまーす」というメタ的な語りで、この作品が男が交通事故で死ぬまでの3秒間の話であることを説明的に語るというのは前回書いた。青柳いづみは「死んだのはここにいるこの男でーす」と座ったままの飴屋法水に手を向け、先ほどの飴屋さんの台詞の意味が少しだけ浮かび上がる。青柳いづみは男が事故に遭う一部始終を見ていて、実は彼女はそのとき飛び降り自殺をするつもりで歩道橋の上にいたと言う。しかし彼女にこれから死のうとする者の深刻さはない。語っている彼女が「自殺する前」なのか「自殺した後」なのか、あるいは「自殺しなかった」のか、どういう状態でどの自制にいるのか、この時点で観客にはわからないが、自殺の理由は確かやんなっちゃったからなんとなく死のうと思うという第三者には不条理なもので(理由についての台詞はあったが失念)、自殺する自分を「笑っちゃいますよね」「きもいですよね」と自嘲的に、しかし飄々と笑いとばし、主体/客体、現実/幻が二重写しになった果てに溶けて透明になってしまったような、アンビバレンツな、人間としての強い存在感を青柳いづみは見せる。

■ 青柳いづみの俳優としての魅力は彼女のそんなアンビバレンツな佇まいにあると思う。人間が人の顔を記憶するときに目はこうで鼻はこうで配置はこう、と理数的な分解はせずに全体像の雰囲気で捉えているように(犯罪容疑者のモンタージュ写真の薄気味悪さはこの人間の認識能力と別の基準で作られているせいだと思う。最近はあまり見ないけど、モンタージュ。似顔絵が主流になったのも「雰囲気」を捉える人間の記憶のメカニズムに似顔絵のほうが適していると聞いた)、青柳いづみの「透明な」「存在感」を説明するのはむずかしいというか不毛な気もするのだけれど、長い髪に白い肌、小さくて華奢な体つきはふわふわとした妄想の美少女のそれで、最も特徴的な鼻にかかった声質は舌足らずで幼児性を感じさせ、ぎくしゃくした体の動きにも同様のものを感じる。しかし舞台にいる青柳いづみはその魅力的な実像が見えているのに透明、リアルすぎる幻のようだ。幻のなかから生々しい別の姿が滲み出てくるようにも見える。舞台以外の素の彼女も幾度か見ていて、たとえばこの日も開場前に「このパンおいしー」とか言ってパンを食べながら仲間と立ち話していたが、その様子はごく普通の女性、25歳の女の子で(当り前だけど)、舞台の青柳いづみの幻性はなかった。にもかかわらず、いつも青柳いづみは幻のような透明感を伴って舞台に現れ、ここが驚かされるところなのだけれど、人間・青柳いづみとして作品世界を生きてしまう。技術で役になりきる、とか、演者自身が役になってしまう、とか、そういうことではなく。

■ 支離滅裂だ。やはり青柳さんの魅力は書けない。前回保留にしていた飴屋さんと青柳さんの固有性、演者でありながらそれぞれが本人として舞台にいるということについて、今回は飴屋さんのことまで書くつもりがほぼ青柳さんの話だけで、しかも消化不良のまま終わってしまった。飴屋さんについても多分書けない。言語化などという大それたことではなく(というか考えてる時点でそれは書かなくても言語ですからね)、絵画や音楽を言葉に置き換えることはできないというわかりきった不可能性の問題として。

■ でもまだまだ続けます。青柳いづみは「これは3秒間の話です」と繰り返した。それを1時間以上かけて見せたのが『マーム×飴屋』だった。つまりこれは3秒間の話ではないということだ。瞬間に永遠を見るとかありきたりのロマンチックな物言いで終わらせるのはつまらないし忍びない。そういうつもりであえて長い感想を書いている。だからもしかしたらこの感想は終わらないかもしれない。




なー、ゴマ。「 リアルすぎる幻のようだ/『マームと飴屋さん』の感想4 」_d0075945_215912.jpg
by gomaist | 2012-06-27 02:19 | 演劇


ゴマと日日と音楽と。


by gomaist

フォロー中のブログ

ゴマブロ

以前の記事

2013年 11月
2013年 10月
2013年 07月
2013年 02月
2013年 01月
more...

検索

ブログパーツ

OSインストール方法

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31