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「 通俗的な題材の通俗的な地点への帰着を最後まで揺るがし続ける/『マームと飴屋さん』の感想7 」


■ お暑うございます。駅まで歩いて15分程度の道のりも日陰を選びながらでないとつらい。いつだって、これからも、日陰者らしく歩いていこうと思います。

■ 『マームと誰かさん・ふたりめ/飴屋法水さんとジプシー』(以下、『マーム×飴屋』)の感想続き。記憶はずっと揺らぎ続けていて、作品は世に出された瞬間から作者のものではなくなるということは小説や音楽でも言われることだけれど、6月3日から1カ月以上経ってなおもこうして感想めいたものを書き継いでいるとそれが受け手であるこちら側のほうでも実感されてきて、ここで語っている『マーム×飴屋』はもはやあの日あの場にあったものではなくなっている。しかしもちろんそれは記憶が薄れるとか歪められるとかそういう話ではなくて観劇直後のクリアな記憶を元に語ったとしても、あるいは可能ならビデオコメンタリーのようにリアルタイムで語ったとしても同じことだ。人はカメラではないし記憶は記録ではない。ついでに言えばカメラも「写真」ではない。シャッターを押した者の現実であり、プリントを見た者の現実であって、そこに「真」は写っていない。事実の提示が芸術ならば芸術は必要ない。あまり関係ない話ですが。

■ 「未来って私がいない世界のことでしょ」

■ 青柳いづみは廃車の上に立って私たち観客の顔を見回しながら、しかし私たちではなく、自分に問い掛けるようにそう言った。前回の感想で藤田くんがどうのと書いたことを反省していて(という意味で上の冒頭のブロックに書いたようなことも考えていたわけなのだが)、作家の意図を読み解くことに意味がないとは思わないがここでだらだらと書いていること、書こうとしていることの本意ではないのでそれについてはこれ以上書かない。ただこれまで「死」と「記憶」に囚われて来たマームとジプシーが「未来」に触れたこと、ようやく台詞になった「未来」がそういう認識だったことに少なからず感動したのだった。「未来って私がいない世界のことでしょ」と青柳いづみの少女のような声によって断言はされない問いを含んだ未来観。逆に考えれば、では「未来」にいない「私」はどこにいるのか。動き続ける「現在」のなかにしかいないのではないか。「記憶」によって「現在」まで運ばれて来た(運ばれ続けている)ここにしか「私」はいない。その「私」を捉えようとするときに手がかりになるのは「記憶」であり、失われた「過去」=「死」であって、あらかじめ失われている「未来」(決して追いつけないという意味では失われ続けている)から「私」を捉えることはできない。

■ 私とは何者かと考えることは世界を考えることに等しい。あるいは常に対になっている。私を考えることは世界について考えることだし、世界を考えることは私について考えることだ。「世界」とは私の想像がおよぶ現実世界としての「世界」の意味で書いている。この対になった思考の触媒になるものが私は芸術表現だと考えていて、もっとやわらかく言えば、考えることを促される表現はおもしろいなあと思っている。私の話はどうでもいいか。

■ 目の前の事故で起きた可能性がある子どもたちの不条理な死に、青柳いづみは「未来」の手がかりを見て、そこが「私のいない世界」かもしれなくても、子どもたちの死の回避によってつながった「未来」を肯定的に語った。しかし残された生の時間の長さだけが「未来」だろうか。「未来」は「私がいない世界」まで続いていく時間のことで、それは何をおいても肯定されるべきものなのだろうか。『マーム×飴屋』が取り上げた題材は最近になって頻発しているように思われる(単純に報道に触れる機会が増えただけかもしれない)乗用車が歩行者に突っ込む事故や長距離バスの事故などを連想させる。実際の作品の着想もおそらくそこに端を発しているのだろう。たくさんの命と生活が奪われた事故の報道に触れて誰もが心を痛める。無惨で悲しく救いがなく、世界は不公平で不条理なものだと考える。しかし『マーム×飴屋』が描き出したものは語弊があるのは承知で言えば、未来がある子どもの命は失われるべきではない、失われるのは悲しいことだ、などというごく当たり前のことではなかったはずだ。

■「未来って私がいない世界のことでしょ」の不安定な認識に含まれた何か。それだから未来を否定するのではなく、それでも未来を肯定して子どもたちたちが事故に会わないでよかったと思う、その一方で男は「1秒目で宙に飛んで、2秒目で地面に落ちて、3秒目で死んだ」。なんてあっけなく、なんて無様な死だ。『マーム×飴屋』は「もしクルマが子どもたちの列に突っ込んでいたら。と、思ってしまう」ことと、現実にそのクルマにはねられて目の前で死んだ男のことを並列に考える、そのことを観る者に要請している。子どもたちも、男も、女も、OLも、そして観客も、外を行く通行人も、そこからこちらも観ている人も、すべて他人で無関係という未然の関係性のなかで、それを考えることはつまり世界について考えることではないか。作品の前景にいるのは死なないで済んだ子どもたちではなく、目撃者である青柳いづみと「1秒目で宙に飛んで、2秒目で地面に落ちて、3秒目で死んだ男」だ。青柳いづみには(私たちにとっても)他人であるという設定の飴屋法水演じる男。彼がただの事故の被害者としての匿名的な他人ではないことが『マーム×飴屋』の通俗的な題材の通俗的な地点への帰着を最後まで揺るがし続ける。

■ 明後日には『マームと誰かさん・さんにんめ/今日マチ子さんとジプシー』を観ますが、この感想はそれでもまだまだ続けます。

■ 夜になって涼しくなった。風が気持ちいい。




なー、ゴマ。「 通俗的な題材の通俗的な地点への帰着を最後まで揺るがし続ける/『マームと飴屋さん』の感想7 」_d0075945_2240670.jpg
by gomaist | 2012-07-19 23:14 | 演劇


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