「 11月/バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想2 」


■ 以下を書いてすっかりアップしたつもりでいた。テキストファイルには“1016”(10月16日)とある。観たものの内容どころか自分の行為も忘れているダメさ。しかもまだ続くという…。

■ バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想の続きです。続きですがまた間が空いてしまったのは前回も書いたけれど、あれからいくら思い出そうとしてもほんとに内容を思い出せなかったからで、なんというかたいへん申し訳ないです、としか言いようがなく、しかしもちろんこれは義務で書いているわけではないから謝るのもおかしなアレではあるのだけれど(今野さんには「書く」とはっきり言いましたし、それは間違いなく言ったので、自分なりの約束としてずっと心に引っかかっていたのは確かで、今野さんはどういうお気持ちでか「待ってる」とは言ってくれてるしなあ、と「義務感」まではいかないものの、人として書く「べき」だろうという気持ちがなかったわけではない。なので、忘れちゃって申し訳ない、というのは「あんなに素晴らしいものを見せていただいたのに…」という今野さんはじめバストリオのみなさまに対して小さく感じている気持ちです、と一応おことわりしておきます)、あの作品については書き残しておきたいと強く感じて、書きたいこと(それはさすがにある程度覚えている)があったからこそ、いまもこうして書いているわけでして、しかしなあ、話は忘れちゃったんだよなあ。

■ 前置きが長くなりましたが。忘れたことは忘れたまま、記憶違いもかなりあるかと思うが記憶違いは記憶違いのまま、すでに誰かによってどこかに書かれているはずの『Very Story, Very Hungry』評などを参照することなく、ある意味身勝手に、ともすれば私家版『Very Story, Very Hungry』、『Very Story, Very Hungry』俺re-mix、が現れてしまうのも厭わずに、前回内容についてはほぼ触れることなく終えた『Very Story, Very Hungry』の感想を、では、続けます。

■ メモ。あるいは仮説めいた覚え書き。あらかじめ語ることができない物語としての『Very Story, Very Hungry』。メディアとしての物語ではなく、インターフェイスとしての物語。

■ 入場時から舞台美術が露になった横長ステージの上手奥、私の席からはほとんど見えないそこに天蓋風の薄い布が下がり、幾人かの出演者が床の布団に寝ているところ舞台は始まる。20世紀初頭の豊かな欧米のイメージかデコラティブな応接室を思わせるセット、観葉植物、大量の服が掛かった移動式ラック、古いテレビモニター(ラジオだったかも)、ビニール製簡易プールとその上に天井から提がったビニール傘、三角屋根の小さなテント、ギターとアンプ、思い出せるだけでもそれらのものが舞台には点在しており、時間と空間が限定されない場として設定されていることがわかるが、関連性の希薄なモノがそうとわかるように過度に置かれていたせいだろうか、そこ/ここは「過去」か、と感じた。モノは「過去」を内包し、そこに属するものだから。

■ 芝居がかったふうに喋り出したのは(芝居なのだから芝居なのは当然だが「いかにも」な芝居として、つまり何かを演じているものをわからせるように)セルバンテス『ドン・キホーテ』の登場人物たち。『ドン・キホーテ』とはいきなり意表を突かれたが「意表を突かれた」と感じたのは『ドン・キホーテ』にはメタフィクションの祖というイメージがあって、実は読んでいないので周辺の情報から形作った推測でしかないのだけれど、メタフィクションをベースに敷いて語るとは予想していなかったからだ。しかし『ドン・キホーテ』はすでにしてメタフィクション構造をもっていた近代小説の祖でもあるわけだから(つまり小説は物語についての物語という批評性をもって誕生した。というのは知ったか情報ではあるが、『我が輩は猫である』もメタ構造の小説であることは近年読んで知った)、「物語」をテーマにした今作の本気度も同時に感じた。いよいよ真正面からきたぞ、と思った。その冒頭にはベタの予感があった。

■ 橋本和加子演ずる<ドン・キホーテ>はしかし、女性の姿をしているばかりか台詞の語尾に「ずら」を付ける者だった。女性であることに引っかかりはないが「ずら」はそうはいかないだろう。なぜこの<ドン・キホーテ>は方言である「ずら」を使うのか。ずら→コミカル/戯画的な発話→方言→静岡?山梨?群馬や長野のほうでも使った気がする→殿馬(ドカベン)→秘打→指の間を切る手術を受けている。ピアニストを目指した過去あり。→その指を活かしてワンポイントでフォークを投げたことがある。観ながらそんな連想をしたくらい「ずら」にはすごく引っかかったが、いまの連想でいうと静岡以降は本作における<ドン・キホーテ>の「ずら」とおそらくは関係ない。

■ <ドン・キホーテ>が原作のように妄想に取り憑かれた者だとするならば、彼(彼女)は空想の町を探して地図を頼りに旅に出るという。町の存在を否定し旅出を止める<ロシナンテ>と<サンチョパンサ>。夢見るように理想の町の様子を語って制止を聞かない<ドン・キホーテ>が「ずら」言葉=方言を使うのは彼(彼女)は道化であると同時に中央から疎外された周縁の者であることを示している。騎士道譚への風刺でもあった原作のドン・キホーテが妄想者としてトラブルを起こす滑稽な存在であった(と想像してます)ように、これから「物語」を担うことを匂わせる<ドン・キホーテ>もまた同様であり、威勢ばかりいい惚けたように見える者として現れるが、しかしそれを観る私たちは彼(彼女)の語る町がきっと実在すると感じる。原作を少しでも知っていたら、それは<ドン・キホーテ>の妄想だと考えるのが筋なのに私はそう思って観ていた。

■ ひとつには橋本和加子がそのように演じていたからだ。彼女の思いは遂げられるであろう、まだ見ぬ町への希望はそう観客に信じさせるように語られていた。もうひとつの理由は本作が「物語」の物語であるという以上はそのような結末が用意されていてしかるべきだという観る者の期待が反映されていたからだと思う。<ドン・キホーテ>の語る町の存在は「物語」の可能性の是非を問うアナロジーで、だからそれは肯定されるに違いなかった。とはいえ、着地点が予定調和のなかにはないことも期待していた。「物語」の可能性の肯定はある「地図」に関わっていて、<ドン・キホーテ>のいう「地図」とはつまり物語の祖としての『ドン・キホーテ』を下敷きに幕を開けたこの作品そのものであろうと推測できたからだ。冒頭数分間のシーンには単純なメタ構造に逃げず、「物語」のための物語に回収されない(であろう)仕掛けが見て取れ、その先の展開に期待させられた。

■ ところで<ドン・キホーテ>が戯画的な方言を使う地方の者であったこと、それは原作からの援用かもしれないが、穿った見方をすればそこに反中央集権の主張が重ねられてはいなかったか。もっといえば、震災以降いっそう露呈した中央集権システムの欠陥と欺瞞性、日常生活の脆弱さは瓦解した「物語」の姿であり、それを撃ち奪還する役割として<ドン・キホーテ>を反中央の周縁者、地方の者に設定したのではないだろうか。

■ どのように「物語」を。「物語」の何を。肯定するか。なぜいま「物語」なのか。そのための作品の「地図」はそうして広げられたように見えたが、その後のめくるめく展開/転回に私は迷い子になっていくのだった。結果をいえば、しつこいほど書いてますが、私は物語を持ち帰ることができなかった。本を手にするように、データソフトを持つように、脳内に『Very Story, Very Hungry』の物語はフォーマット化されなかった。私がバカであるのを棚に上げさせてもらうと、つまり『Very Story, Very Hungry』が提示したのはメディアとしての物語ではなかった。のだと考えている。あの場にしかなく、あの場で、作品を接触軸に、作品と観る者が変容して、そして消えていく、インターフェイスとしての物語だった。と思ったりしているのだ。

■ 11月。前回からちょうど1カ月経ってしまいましたが感想は続きます。こんな更新頻度ではありますがブログはやめませんので。見てくださっているみなさま、ありがとうございます。

■ ゴマも元気です。



なー、ゴマ。d0075945_122932.jpg


*橋本さんのお名前を間違えておりました。
 訂正済みですが、
 正しくは「橋本和加子」さんです。
 大変失礼いたしました。(12.11.2)

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by gomaist | 2012-11-01 12:10 | 演劇


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