だいちゃん/交差/猫を知る


溜池山王駅の近辺にある勤め先に駅から向かう途中でよく会う猫がいて、私はその猫を「だいちゃん」と呼んでいる。呼んでいるといっても「だいちゃん」と声にして呼びかけることはないので、頭の中でそう呼んでいるだけなのだが勝手にそう名付けたわけでもなく、何年か前に同じ場所でよく見かけた人懐っこい猫を撫でていた時に居合わせた女性がその猫をこの近所で飼われている「だいちゃん」という名のコだと教えてくれたのだった。それからそこで猫と会わない時期がしばらく続いて、再び会うようになった猫がその時の猫と似てはいたけれど同じコかどうか判然としないまま「だいちゃん」と(頭の中で)呼ぶようになって、でもそれからは「だいちゃん」は他の猫と混同することなく(他の猫を見ていないからなのだけれど)、間違いなく「だいちゃん」として朝の通勤時に会えるのを楽しみにするようになった。

だいちゃんは首輪をしていて毛並みもきれいなので当然飼猫だろうと思い込んでいたのだけれど、人懐っこいのでそこを通る人の中には気にかけている人も多く、ある時に「この猫は野良猫なんだけど、みんなにかわいがられているので連れて行かれないように誰かが首輪を付けた」という話を聞かされた。そう言われてみれば、毎日ではないけれどもたいてい路上の同じ場所にいるのもそうだし、首輪がボロボロに傷んでいるのも気にならないわけでもなかったので、あり得る話だと思った。それからほどなくして寒い季節に入ると冷え込む日や雨の日にはだいちゃんのことを心配するようになってしまい、数日見かけないと心落ち着かないほどだったが、一ヵ月ほど前だったか、だいちゃんの飼い主と会って話すことができた。

いつものように朝の行きがけに見かけただいちゃんを撫でていると(いまやだいちゃんは私の顔を見ると鳴いて寄ってくる)、離れたところでこちらを見ている女性がいて、声を発しているようにも聞こえる。気にしつつ、出社前であまり長居もできないのでその場を去ろうとすると、だいちゃんは女性の声に反応して私が会社方向に歩き出したのに並ぶように女性の元へと小走りに進んだ。「もしかして…」と女性に尋ねてみるとそれが飼い主の方で「いつもすみません」とだいちゃんをかまってあげていることに対して礼を言われた。聞けばだいちゃんは13歳のメスで(メスであることは知っていた)名前は「ゴ」だという。「いち、にー、さん、し、の、五。へんな名前でしょ」と50代くらいに見える女性は微笑んだが、私はそれで「あっ」と思ったのだった。

私はかつての「だいちゃん」と思しき猫と会っていた前後に「五」と会っていて、しかも飼い主と話したことがあった。しかし飼い主はこの女性ではなく老年の男性で、同じ場所で猫を撫でていた時に迎えにきたらしいその人から「五」という変わった猫の名と「こいつももうずいぶん年寄りなんだよ」と年齢までも聞いていた。あの時の猫がいまのこの「だいちゃん」で「五」だったのだ。

すみません、と私は女性に聞いてみた。間違えだったらすみませんが、おうちにお年寄りの方いらっしゃいませんか、ぼく以前に飼い主だという方とお話したことがあるんですけど、と言うと、女性はちょっと吹き出すように笑って、おりますよ、年寄りですけどあれ主人です、私の、と言った。私が(ずいぶん年が離れていると思い)驚いたふうを見せてしまったので、女性は気を遣ったのか「あ、ほんとに年寄りなんですよ。もうね、だいぶボケちゃってるんですけど」とわざわざ付け加えてくれた。

だいちゃん(五)がいつもこの場所にいるのは孫猫と折り合いが悪くて家に居場所がないこと、外でいろいろな人にかわいがられているせいで自分にあまり寄り付かなくなっていること、エサをあげる人がいるので最近太り気味で病院に連れて行こうかと思っていること、他に何匹かいた猫もある日いなくなってしまったこと(猫は死ぬところ見せないって言うでしょ?と女性は言った)、そうしたことを飼い主の女性は話した。最近あまり見かけなかったのはおうちにいたんですか、寒い日が続いていたから心配していたんですけど、と私が言うと、数日はやはりずっと家にいて、すっかり寄り付かなくなってたのに久しぶりに自分の膝にも乗ってきた、と女性は笑った。

「ほら、行くよ?いいの?」と女性が呼んでもだいちゃん(五)は傍まできただけで付いていく様子はなく、いつもの散歩コースに向かっていき、「いいのね?もうほんとに」と諦めた女性と、ではまた、と別れて私は会社に向かった。もう一ヵ月ほど前のことだ。

私がここ何年かその場所で会っていたのは全部だいちゃん(五)だったのか、それとも「五」とは別にほんとの「だいちゃん」がいたのかはわからないままだったが、今度飼い主さんに会うことがあればそれも聞いてみようかと思う。ほんとの「だいちゃん」も多頭飼いをしているその家の猫で、いなくなってしまったうちの一匹、五の前の一や二や三や四、あるいは五の子どもだったかもしれない。

そんなことがあって「だいちゃん」には「五」という名があることを知ったのだけれど、私はいまも「だいちゃん」と呼んでいて、今朝もいつもの場所で会い、膝に乗せて撫でたり写真を撮ったりして会社に遅刻をしたのだった。いまではゴマよりもだいちゃんの写真を撮ることのほうが多くなってしまったほどだ。いつも会えるかどうかわからないだいちゃんに会えた時の喜びはあって、オフィスビルの裏口の小さな広場になっている地面から数十センチの植え込みにぽつんと座っているだいちゃんの姿を見つけると私はいつも胸が締め付けられてしまう。

私の一人の時間とだいちゃんの一人の時間は誰にも知られることのない時間で、私がだいちゃんの存在に気づき、だいちゃんも私に気づいて目が合いニャアと鳴いた時に、交わるはずのなかった時間は交差する。それは絶対的に重なることはないのだけれど、瞬間でも交差して、そしてまた離れて誰にも知られることのないお互いの時間が続いていくという刹那の喜びはわかりあうことが決してない猫と人間だからこそ際立つかそけき感情で、ゴマとの出会いをきっかけに猫を「知る」ことがなかったらおそらくこうした感情を見つけることはできなかったと思う。そして同様の刹那はゴマとの間にももちろん感じることだ。




なー、ゴマ。d0075945_1364874.jpg

[PR]
by gomaist | 2013-02-01 01:54 |


ゴマと日日と音楽と。


by gomaist

プロフィールを見る
画像一覧

フォロー中のブログ

ゴマブロ

以前の記事

2013年 11月
2013年 10月
2013年 07月
2013年 02月
2013年 01月
more...

検索

ブログパーツ

OSインストール方法

その他のジャンル

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30