同じ時/かえる目/魚介のルートを持っている散髪屋


同様のものはしばしば見かけるが職場近くの寺の門前に「同じ時を生きている」という書が掲示されていた。たまにしか通らないのでどれくらいの頻度で書き換えられているのか、書のタッチが相田みつを風なのはともかくとして、今日目にしたのはそういう言葉で、仏教上の背景については知らないが何者も決して「同じ時」を生きてはいないだろうと思う。私の「時」とオバマ大統領の「時」が同じはずがない。2月5日19時半の銀座線に乗った私の「時」と私の隣の席に座ったチャコールグレーのロングコートを着てコーチのバッグを膝に置きスマフォを見ている女性の「時」も同じではないし、地下約10mに敷設されたトンネル内の線路を平均時速34.2kmで進む銀座線の「時」と高度1万mの成層圏を時速900kmでホノルルに向かうボーイング747の「時」が同じではないように、ケニアのサバンナを歩くアフリカゾウの「時」と日本の東京都台東区にある地上3階の一室で畳の上を歩くアメリカンショートヘアの「時」も同じではない。「時」は個別の生物・非生物に属するものだ。

そもそも「同じ時を生きている」というエピグラムが何を語らんとしているのか私にはよく理解できないのだけれども(よく知らないJ-POPの人が熱唱してるみたいなことか?)、エピグラムというのはだいたいそういうもので、占いの回答に似て解釈を受け手に委ねることで何にでも当てはまる何かを語ったような態をなしていることが多い。肝心なのはとにかく言いきること、断言することだ、と言ったのは一昨日の七針でライブを行ったかえる目のかえるさんこと細馬氏で、「たとえば…」と即興で言ったエピグラム(このときは名言という言い方をしていたと思うが)は「スピーカーが右にひとつ、左にひとつある」だった。若干ちがったかもしれないが、「スピーカーが右にひとつ、左にひとつある」と相田みつをの字体で門前に掲げられているところを想像してみれば、少なくとも私は「同じ時を生きている」よりはそこから多くのことを考えさせられるだろう。





八丁堀七針におけるかえる目のツーデイズライブには素晴らしい「時」があった。その場にいたすべての人が「同じ時」を生きたわけではなく、同じものを見て同じ音を聞いて(実はそれさえ「同じ」はずはないのだが)「ちがう時」を生きたことが何より素晴らしいと思えるのだという言い方にもまたエピグラム的なレトリックがあって胡散臭いことこの上ないが、2日目のライブ後に振る舞われたアンコウ鍋のおいしさは格別で、きっとあの日あそこであれを食べた20名ほどの人たちはその日のことを思い出す度に「アンコウ鍋おいしかった」と同じ記憶を引き出すことになるのだろう。そのアンコウ鍋のアンコウを差し入れてくれたのが雑居ビルの地下にある七針の階上の散髪屋さんというのがおもしろい。以前にも散髪屋さんはとてもおいしい刺身を差し入れてくれたことがある。そんな質のいい魚介のルートを持っている散髪屋さんはmmmのファンらしいです。

かえる目はかえるさんの歌の強度が上がったことでより自由になったと思う。メンバーそれぞれがどれだけ自由に演奏をしても歌の強さが放つ音の流れと広がりのなかに乗っていく。バラバラなままでバンドマジック的な化学反応を起こすでもなく(ここが凄いと私は思う)、その歌が持つあるべき像を、再現という形ではなく一回性の体験として作り上げてしまう。まったくうまく表現できていないが、かえる目はいま何にも似ていないバンドになっているのは確かだ。そしていまだどこかわからないところに向かう過程にいる。かえるさんによれば新曲はカバー含めていま105曲あるらしい。




東京は今夜未明から大雪の予報が出ていたがまだ降り始めてはおらず、窓を開けてみたが雪が降る前の独特の湿った埃っぽい匂いもしていない。




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# by gomaist | 2013-02-05 23:19

溜池界隈/七針/山本精一の歌


猫のだいちゃんが住んでる溜池界隈は首都高が並行する六本木通りが走り、アークヒルズやANAインターコンチネンタルホテル(旧東京全日空ホテル)をはじめ、溜池山王駅や六本木一丁目駅が出来た前後からはさらに開発が進み、オフィスビルが林立している。しかしこのあたりは元々古い住宅街であって、ひと昔前(ふた昔か?)トマソン物件の都市観察学会の調査において最も有名な写真のひとつとなった煙突の上から魚眼で撮られた一枚は現アークヒルズのある旧 谷町の銭湯で、アークヒルズ着工前(着工は1983年)の住宅が密集した古い町並みを捉えている。

30年を経た大規模開発の果てに当時の町は見る影もないかというと案外とそうでもなく、特に六本木通りから赤坂側、首都高・六本木通りを挟んだアークヒルズの向かいの一画は裏に一本道を入るだけで昭和期の古い民家がいまも何軒か残っていて、開発地の喧噪と隣合わせになった別の「生活の場」がある。だいちゃんの散歩コース、テリトリー自体は赤坂ツインタワー敷地内と周囲なのだけれど、溜池の一般イメージしかない人からしたら、あのあたりで外飼いの猫というのが奇妙に思えるかもしれないが、けっこう安全かつ快適な棲み場なんじゃないかと思う。もう一匹、それはどうやらほんとに野良で、でも近隣の人が面倒を見ているようなのだけれど、古い八百屋のところにシロクロ鉢割れの猫がいて、日当りのいい日には屋根の上やアパートの鉄製の外階段で寝ている姿を見かける。

アークヒルズのことをちょっと調べていたら、立地は溜池だし谷町だし、つまりアークヒルズが建っているのは窪地で(実際溜池には昔本当に「溜池」があった。大雨が降るといまでも溜池交差点は冠水し溜池山王駅に流れ込むだけでなく構内では日常的に雨漏りがする)、さらにそこから六本木方面に向かって徒歩15分くらいは離れた場所にある六本木ヒルズが建っているのは北日ヶ窪町で、溜池から向かうと割ときつい坂を長く登るので気づきにくいがここもまた町名が示すように窪地だ。アークヒルズと六本木ヒルズ、どちらも窪地に建てられたにも関わらず「ヒルズ(丘)」という名称を付けるのはいかがなものかと、森ビルに対してなんだか本気で怒っている人がネットにいてどうでもいいけど笑った。





昨日はインフルエンザで滞ってしまった仕事のツケに追いつめられて働いた後で、夜から八丁堀の七針へ行った。かえる目と田中淳一郎+村野瑞希+會田洋平のツーマン。開演ギリギリに入ると予約でソールドアウトになった会場は満員。今年はじめてのライブになったが、かえる目は細馬氏のソングライティングと歌がますます深化し(新曲どれもよかった。1曲目はaiko「アンドロメダ」のカバー!)、木下“岡村ちゃん”PRINCE氏のボーカルと変態バイオリン、宇波氏の控えめながら豊潤な鳴りのギター、バンドを存在感で包む中尾氏と、いよいよ凄いことになっている。また初披露だったか田中トリオ(バンド名未定)のミスチルオマージュも、本気でこんなことやっておもしろいでしょ?という衒ったそれではなく、元々ミスチルファンの田中さんと會田さんがミスチル的オリジナル曲を名曲然として本気で演奏するなかにズラシの気配を絶妙のバランスで配合しているところに得も言えぬおもしろみと快楽があり、私はほんとにずっと笑いっぱなしだった。ザ・なつやすみバンドのドラマー、ミズキちゃんの加入がこのバンドの妙味のポイントにもなっている。久しぶりに見たミズキちゃん、かわいいからきれいになってて、おっちゃんときめいたよ。そして今日も連日のかえる目@七針へ。対バンはmmm。楽しみだ。





ひとばんじゅう まんじりともせず
愛のことで 愛のことで
明るい昼 が ボクをつかまえた
しらないまに ねむりこけて
また しごとに おくれたな
おやかたはいう オマエは首だ
そしてボクはベッドにもどった

そしてたのしい 夢をみた
君の頭を 君に頭を
ボクのうでを 下にした

《「失業手当」詞:高田渡/原詞:Langston Hughes/訳詞:木島始/曲:高田渡》

この高田渡のカバーも入った山本精一『山本精一 カバーアルバム第一集』が素晴らしい。比較的有名曲が多く含まれたカバー集だからということもあろうかと思うが、「思い出す」という感情をどうしようもなく刺激される。しかしどうも私は何も思い出してはいないのだ。ただ「思い出させられる」という感覚だけがこのアルバムの演奏から起ち上がってくる。記憶の形さえとどめていないある空気感を想起するような懐かしさともちがう。聴く度に名付けられない感情のざわめきが全身を流れる。

ここでの山本精一の歌はゴロンと現れる空虚のようだ。ただ空虚な存在は確かな穴としてそこに穿たれていて、それは羅針盤やこれまでのソロ作で聞かれる山本精一のオリジナル曲とはまた別の魅力があり、もっといえば歌声にこれまでにない強い確信が感じられる。もしかすると山本精一は自分の言葉を信じていないのではないか。自分のなかには本来ない外在化した言葉に与えられた意味と、そして音だけが彼の人が信じられることなのではないだろうか。一聴するとごくシンプルな、弾き語りと言っていい音づくりは異様なまでに凝っていることにすぐ気づかされる。おそらく楽器はギターのみだがボーカル録りも含めアレンジとアンサンブル、録音の質は極点に達していると思う。




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# by gomaist | 2013-02-03 14:18 | 日日

だいちゃん/交差/猫を知る


溜池山王駅の近辺にある勤め先に駅から向かう途中でよく会う猫がいて、私はその猫を「だいちゃん」と呼んでいる。呼んでいるといっても「だいちゃん」と声にして呼びかけることはないので、頭の中でそう呼んでいるだけなのだが勝手にそう名付けたわけでもなく、何年か前に同じ場所でよく見かけた人懐っこい猫を撫でていた時に居合わせた女性がその猫をこの近所で飼われている「だいちゃん」という名のコだと教えてくれたのだった。それからそこで猫と会わない時期がしばらく続いて、再び会うようになった猫がその時の猫と似てはいたけれど同じコかどうか判然としないまま「だいちゃん」と(頭の中で)呼ぶようになって、でもそれからは「だいちゃん」は他の猫と混同することなく(他の猫を見ていないからなのだけれど)、間違いなく「だいちゃん」として朝の通勤時に会えるのを楽しみにするようになった。

だいちゃんは首輪をしていて毛並みもきれいなので当然飼猫だろうと思い込んでいたのだけれど、人懐っこいのでそこを通る人の中には気にかけている人も多く、ある時に「この猫は野良猫なんだけど、みんなにかわいがられているので連れて行かれないように誰かが首輪を付けた」という話を聞かされた。そう言われてみれば、毎日ではないけれどもたいてい路上の同じ場所にいるのもそうだし、首輪がボロボロに傷んでいるのも気にならないわけでもなかったので、あり得る話だと思った。それからほどなくして寒い季節に入ると冷え込む日や雨の日にはだいちゃんのことを心配するようになってしまい、数日見かけないと心落ち着かないほどだったが、一ヵ月ほど前だったか、だいちゃんの飼い主と会って話すことができた。

いつものように朝の行きがけに見かけただいちゃんを撫でていると(いまやだいちゃんは私の顔を見ると鳴いて寄ってくる)、離れたところでこちらを見ている女性がいて、声を発しているようにも聞こえる。気にしつつ、出社前であまり長居もできないのでその場を去ろうとすると、だいちゃんは女性の声に反応して私が会社方向に歩き出したのに並ぶように女性の元へと小走りに進んだ。「もしかして…」と女性に尋ねてみるとそれが飼い主の方で「いつもすみません」とだいちゃんをかまってあげていることに対して礼を言われた。聞けばだいちゃんは13歳のメスで(メスであることは知っていた)名前は「ゴ」だという。「いち、にー、さん、し、の、五。へんな名前でしょ」と50代くらいに見える女性は微笑んだが、私はそれで「あっ」と思ったのだった。

私はかつての「だいちゃん」と思しき猫と会っていた前後に「五」と会っていて、しかも飼い主と話したことがあった。しかし飼い主はこの女性ではなく老年の男性で、同じ場所で猫を撫でていた時に迎えにきたらしいその人から「五」という変わった猫の名と「こいつももうずいぶん年寄りなんだよ」と年齢までも聞いていた。あの時の猫がいまのこの「だいちゃん」で「五」だったのだ。

すみません、と私は女性に聞いてみた。間違えだったらすみませんが、おうちにお年寄りの方いらっしゃいませんか、ぼく以前に飼い主だという方とお話したことがあるんですけど、と言うと、女性はちょっと吹き出すように笑って、おりますよ、年寄りですけどあれ主人です、私の、と言った。私が(ずいぶん年が離れていると思い)驚いたふうを見せてしまったので、女性は気を遣ったのか「あ、ほんとに年寄りなんですよ。もうね、だいぶボケちゃってるんですけど」とわざわざ付け加えてくれた。

だいちゃん(五)がいつもこの場所にいるのは孫猫と折り合いが悪くて家に居場所がないこと、外でいろいろな人にかわいがられているせいで自分にあまり寄り付かなくなっていること、エサをあげる人がいるので最近太り気味で病院に連れて行こうかと思っていること、他に何匹かいた猫もある日いなくなってしまったこと(猫は死ぬところ見せないって言うでしょ?と女性は言った)、そうしたことを飼い主の女性は話した。最近あまり見かけなかったのはおうちにいたんですか、寒い日が続いていたから心配していたんですけど、と私が言うと、数日はやはりずっと家にいて、すっかり寄り付かなくなってたのに久しぶりに自分の膝にも乗ってきた、と女性は笑った。

「ほら、行くよ?いいの?」と女性が呼んでもだいちゃん(五)は傍まできただけで付いていく様子はなく、いつもの散歩コースに向かっていき、「いいのね?もうほんとに」と諦めた女性と、ではまた、と別れて私は会社に向かった。もう一ヵ月ほど前のことだ。

私がここ何年かその場所で会っていたのは全部だいちゃん(五)だったのか、それとも「五」とは別にほんとの「だいちゃん」がいたのかはわからないままだったが、今度飼い主さんに会うことがあればそれも聞いてみようかと思う。ほんとの「だいちゃん」も多頭飼いをしているその家の猫で、いなくなってしまったうちの一匹、五の前の一や二や三や四、あるいは五の子どもだったかもしれない。

そんなことがあって「だいちゃん」には「五」という名があることを知ったのだけれど、私はいまも「だいちゃん」と呼んでいて、今朝もいつもの場所で会い、膝に乗せて撫でたり写真を撮ったりして会社に遅刻をしたのだった。いまではゴマよりもだいちゃんの写真を撮ることのほうが多くなってしまったほどだ。いつも会えるかどうかわからないだいちゃんに会えた時の喜びはあって、オフィスビルの裏口の小さな広場になっている地面から数十センチの植え込みにぽつんと座っているだいちゃんの姿を見つけると私はいつも胸が締め付けられてしまう。

私の一人の時間とだいちゃんの一人の時間は誰にも知られることのない時間で、私がだいちゃんの存在に気づき、だいちゃんも私に気づいて目が合いニャアと鳴いた時に、交わるはずのなかった時間は交差する。それは絶対的に重なることはないのだけれど、瞬間でも交差して、そしてまた離れて誰にも知られることのないお互いの時間が続いていくという刹那の喜びはわかりあうことが決してない猫と人間だからこそ際立つかそけき感情で、ゴマとの出会いをきっかけに猫を「知る」ことがなかったらおそらくこうした感情を見つけることはできなかったと思う。そして同様の刹那はゴマとの間にももちろん感じることだ。




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# by gomaist | 2013-02-01 01:54 |


ゴマと日日と音楽と。


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