南千住駅東口行き/マスミちゃん/大島渚


何年も通っている上野の心療内科に仕事帰りに寄り、本屋を軽くのぞいて駅前から南千住駅東口行きのバスに乗った。奥の二人掛けの席に座った私の隣に途中で若い女性が座った。顔は見なかったので服装と気配で「若い」と感じただけでそこには私の期待も影響していたかもしれない。とはいえ性的なものとは離れた淡いときめきの正体について考えて小学校のときのバスの遠足を思い出した。好きだったマスミちゃんと一度だけ隣の座席になったあのとき、すごく楽しかったな。まさにあれこそ、ときめき、だろ。あんなにときめいたことは後にも先にもないってくらいときめいた。幼稚園から小学校卒業まで、8年間同じクラスだったマスミちゃん。背が高くて色白でヤイ歯があって瞳が薄茶の子だった。でも小学校時代に好きだった子を思い返すとなぜかマスミちゃんは出てこない。他の何人かの子は思い出すし、いまの小学生では珍しくもないだろうが、クソ生意気にも小6のときにつき合ってたカノジョはマスミちゃんと仲のいい友だちだった。私はマスミちゃんに恋をしていたのだろうか。あの日のバス遠足のときめきははっきりと、こうしていま南千住駅東口行きのバスで女性と二人掛けの座席に座ったくらいの切っ掛けで40年の時を越えて(!!)沸き立って胸を温かくするのに、果たしてあれが恋だったのかどうか当時の気持ちを手繰り寄せることができない。まだ知識としてのセックスさえ知らない小学生の私にとって「恋」と呼べる感情があったかどうかもあやしいが、ではあの感情が恋でなかったとしたら、人生史上最大級のときめき、あれはなんだったのだろう。

小学校を卒業してからマスミちゃんと会うことはなかったけれど、一度だけ中学だか高校の学祭に電話で誘われたことがあったが断った。なんだかハスっぱな感じの口調になってたマスミちゃんが嫌だった。それは12歳になるまで8年間一緒だった私の知っているマスミちゃんとは別の人のようだったし、誘われているのに下に見られているような、バカにされているような気がしたのは電話の口調から感じ取れた「大人になった」「女の」マスミちゃんに、相変わらずガキのままだなと思われるのが怖かったのかもしれない。若干のうぬぼれを承知でいえば(…つったって40年前の話ですからねぇ)、マスミちゃんは私のことを好きだったと思っている。

昨日激しく降り積もった雪はまだ路面にシャーベット状に残り、車線の間や路肩に汚れた雪が大小の塊になって山を作っているのをバスの窓から見ながらマスミちゃんの顔を久しぶりに思い出していたが、思い出したつもりの顔は小学生のマスミちゃんと会うことのなかった電話の向こうの大人のマスミちゃんが混ざっておそらく像にはなっていない。隣の女性は私の降りる停留所のひとつ前で降り、長い髪で隠れた顔は見えないままだった。窓の外ばかり見ていてそれまで気づかなかったが、すぐ前の二人掛け席にはセーラー服の女子中学生と同じ年頃の私服の男子が座っていて、女性が降りた同じ停留所で奥に座ったセーラー服は男子に「すみません」と声を掛けて席を開けてもらって降り、男子は凝視しないようにちらちらと女子を見ていた。ときめいたか男子。と私は心でにやついたが中学生のとてつもないリビドーは体験的に知っているので、たったいま回想していたかつての私のときめきと重ねようとはしなかった。

朝方に家に出たとき、自宅前の雪掻きをしていたまもなく72歳になる私の母は南千住駅東口行きのバスが嫌いでなるべくなら乗りたくないと言う。なぜならこの路線の乗客の多くが労務者や場外馬券場に行く者やよぼよぼの老人だから。母のそういう潔癖さを私はかわいく思う。でも確かにこのバスには生活の残骸(あるいは濃縮された生活そのもの)の気配がいつも漂っている。いつだったか女装のおっさんとスーツ姿のおっさんが仲睦まじく乗っていたのもこのバスだ。




先ほど大島渚の訃報をネットで知った。もうあまりよくないのはわかっていたからそれほど驚きはしなかったが残念。最近大島渚の評価が高まっていたが、それには正当な作品評価がなされてこなかったことの反動もあるかと思うが、現在参照される60年代の運動としての芸術と映画のアクティビズムをどう考えるかという点において大島渚とその業績はとても大きな存在だからだろう。死んだことによって再評価されたところで表現者が報われるものとも私は思わないが、これを機に再び作品を観られる機会が増えればと願う。作品は誰かに観られ続ける限り永遠に生きる。つい先日友人たちと『戦場のメリークリスマス』を見直したいという話をしたばかりだったが、小松川事件を材にしたブラックコメディ風の奇妙な映画『絞死刑』や『新宿泥棒日記』『忍者武芸帖』『少年』などもう一度観たい作品はいくつもある。最近手に入れた黒沢清の映画講義集『黒沢清、21世紀の映画を語る』の中の大島渚講義の項を偶然にもまさに読みかけている最中だったことにはちょっとだけ驚いている。

大島渚という監督は、押しも押されもせぬ日本を代表する世界的な監督であるにもかかわらず、日本ではどうも過小評価されているように僕には思える。その理由のひとつは、少し前まで、大島渚本人がテレビなどに頻繁に出演していて、映画監督というよりテレビ・タレントの印象が 世間一般に定着してしまったというのもありますが、それ以上に、彼が撮影所時代の巨匠のイメージと現代的な奇才のイメージとを共に持ち合わせていて、常にその両方をいったりきたりしているからというのも大きいように思います。つまり大島はヴィスコンティのようでもゴダールのようでもあり、ベルトリッチのようでもカサヴェテスのようでもあるわけです。
《『黒沢清、21世紀の映画を語る』所収「大島渚講座」(2009年7月22日)より》




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# by gomaist | 2013-01-16 00:26 | 日日

再開/はじめての小説/ゴマに


2カ月以上も放置してしまった。しかしアクセス履歴を遡るとその間もほぼコンスタントに訪問者がいらしており、こんな戯れ言だけを並べたブログにまったくありがたいことだが、アクセス数そのものが更新をしていたときとそれほど大きな変動があるわけでないのは喜ぶべきことなのだろうか。放置期間にもポーンとアクセスが跳ね上がる日もあったりして、アップされた記事数とアクセス数の相関関係はあっても、当ブログにおいては更新頻度とアクセス数のそれはほとんどないのかもしれない。

6年ほど前にブログを始めて以来、ネットで人とつながることに関心はないと言い続け、ツイッターを始めたときにも同じことを嘯いてはいたが、いつのまにかツイッターでの書き込みにウェイトが移り、長文になる感想の類いはブログで書く、というように使い分けながらも、ブログの更新頻度は落ちる一方でこうして長らく放置するに至ったのは単に長文を書くのが億劫でツイッターの即時性や簡便性に流されただけでもなくて、やはり私はネットで人とつながる楽しさの一面に魅せられてしまったのだ。コミュニケーションの質や濃さは別としてブログ上よりも多くの人々と交流し、情報を得たり意見交換をしたり、気晴らしに軽口を交したり、またツイッターで知り合った人と実際に会ったり、そうしたことに惹かれるようになった一方で、時折疲弊を覚えることが増えてきたのも多くの人と同様だ。その疲弊を感じたときに知人からも誘われるFACEBOOKなど他のSNSはやめておこうと思った。ツイッターくらいの軽さと匿名性が私にはほどいい。

そんなことを振り返りつつ、だからなんだというわけでもなく、ブログを再開し、続けていこうとあらためて思ったのは年が変わって2013年になったからというごく凡庸なことでもあるのだけれど、タイムライン上に流れて消えていく言葉(実際には消えずに残り過去ツイートの参照は可能なわけですが)ではなく、ブログのフレームの中に記録されていく言葉として日々の出来事や考えを残していきたいと思い直したからだ。一義には自分のため、記録と思考の補助ではあるが、同時にそれは他者に読まれるものとして意識されたものでなければならない。そういう覚悟で書いていく。そういう言葉を、重ねていきたい。

結局のところは演劇の感想に偏向したここ1年ほどのブログ以前の感じに戻るのか、ということになるかもしれないが、自分の意識はまったくちがったところにあって、それもまたこれから書き継いでいくうちに見えてくるかもしれないし見えてこないかもしれない。

と。ここで唐突に言ってみるが、つまるところ、私は小説が書きたいのです。過去に何作かの小説めいたものを載せてきた経緯をご存じの方もおられるだろし、書きたいなら今後も勝手に書いていままで通りに誰に読まれるとも知れぬまま(あえて自虐的にいえば自己満足的に)載せていればいいじゃないかという話だが、そうではなくここで日々重ねていく言葉から小説を立ち上げたいのだと、そしてそれが私にとっての「はじめての小説」になるであろうと、もうほとんど直感的というか思いつき、として、このブログ「猫と音楽」を再開したいと思う。

もちろん当ブログが愛する息子猫であるゴマに捧げられていることはいままで通り変わりはない。



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# by gomaist | 2013-01-15 20:04 | 日日

「 不確定な世界に想像力で根拠を与えること/バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想4 」


■ もちろんそうです。バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想の続きです。前回、新展開があり台本を読んだらまた書く、と書いたのだけれど、台本はまだ読んでいないし手元にもない。でもこうして続きを書き出しているのは「このまま続きが読んでみたい」というリクエストをさる方面からいただいたからだ。こうなるとモチベーションはそちらに向けて書くということになってしまうところだがそうはしない。「もう少々このまま書きたいこともあった」それを淡々と書いてみる。現在東京では池袋をメインエリアに「フェスティバルトーキョー」という年に一度の演劇フェスティバルが開催されており、私も祭り気分に浮かされて11月は週に2〜3本のペースで演劇作品を観る予定で、前回の記事を書いた11月1日以降すでに6つの作品を観た。すぐに影響を受けて揺れる思いはベクトルを変えた『Very Story, Very Hungry』の感想にも及んでしまうはずで、8月終わりに観た作品の感想にはすでに観た時点以降のいろいろが混ざり込んでおり、これ以上事後情報を差し込んでいったら何がなんだかわからなくなってしまう。私が。なので11月1日時点で書き残したことを書きます。

■ 『Very Story, Very Hungry』はバストリオが「物語」に正面から取り組み、「物語」の中から語り、インターフェイスとしての物語を描いた、ということはすでに書いた。<「物語」の中から語る>というのは俯瞰からの「物語」の批評性が優位になる語りではなく、物語による「物語」として、つまりバストリオとして描いた物語がちゃんとあった上で「物語」について考えさせる構造になっていたということだ。もはや壊れてしまった「物語」を解体して批評してみせても虚しい。不毛だ。いま「物語」に取り組むとしたら、自ら物語を語り出さなければいけない。そうでなければ失われた「物語」を取り戻すことはできないだろう。「物語」とは関係性を信じる力だと思う。不確定な世界に想像力で根拠を与えること。だから(たぶん)バストリオは「物語」を中から語ってみせた。

■ それがインターフェイスとしての物語になったのは現前性、一回性を特性として持つ舞台表現に真摯な結果だし、単純に感情移入によってパッケージ化できるメディアとしての物語に作家の今野氏が「物語」の可能性を見ていないからだろうか。勝手に「インターフェイスとしての物語」などと決めつけておいてこんな言い方もへんかもしれないけれど。ただ、<「物語」とは関係性を信じる力>といま書いたことにそれなりの理があるとしたら、一見支離滅裂に見えるランダムな事象を物語として提示し受け手に紡がせる方法、舞台に出現したものを接触面として受け手と作り手が現場で物語を構築することを目指したように私には見えた『Very Story, Very Hungry』の方法は至極真っ当に思える。その道筋には再び「物語」を手に出来る可能性が見える。あれ以上わかるように作り手から物語を提示されてしまっていたら興醒めだったと思う。ああ、いわゆる壊れる前の「物語」ね、と感じていただろう。私は共感を求めてくる物語を信じない。

■ タイトルにもうひとつ含まれたVeryの“Hungry”。その象徴として「牛乳が飲みたい」という欲が置かれていたが、それは言うまでもなく生きることそのもの、生の実感であり、生を支えるものであり、生活のことだ。当たり前の生活をすることへの欲求、それはなぜ「物語」を奪還しなければならないか、なぜ関係性を信じ、世界に根拠を与えなければならないかということの根源にあるものだろう。そこを押さえていることに最も感動させられた。『Very Story, Very Hungry』、「物語」への態度を示したとても良いタイトルだと思った。

■ 以下、まとまらなかったことをランダムに。

■ そう。引用された聖書のことが気になっていたのだ。THE物語である聖書とTHE小説である(読んでないけど)『ドン・キホーテ』。様々な動物たちが登場したがあれはノアの方舟を示唆していたのではないか。町は約束の地か。

■ 音と音楽のこと。役者が走り回る音や橋本さんが鉄扉に体当たりする音。会場に響く残響が手探りで進む物語と絡み合って聞こえた。消えていってしまうものを引き止めるように。『Rock and Roll』でも担当されていた杉本桂一氏の音楽は前作以上に劇作と深く関わり合っていていよいよバストリオ準メンバーかというくらいにきまっていた。会場の音の反響はさぞ大変だっただろうと想像したがそれを感じさせないディレクション。そしてオープニングの曲のかっこよさ。演劇はオープニングが良し悪しを大きく左右すると思っている。杉本さんは飄々としていて作る音が凄いのがほんとにかっこいい。

■ ダンスのこと。唐突に挿入されるダンスは楽しかったし、構成上のアクセントとしても効いていた。好みでいうと台詞劇に挿入されるダンスは苦手なのだけれど、なんというか、けなげさが見えて良かった。というのは演じている方々に失礼な言い方になりますけど、そこには制度に搦めとられないリアルな身体があった。とくに男女のデュオのようになった官能的に絡み合う動きにはかなり惹かれた。あのシーンを拡大して小品にしてほしいくらい素晴らしかった。

■ というわけで『Very Story, Very Hungry』の感想は以上になります。いずれ台本を読んだときにまた答え合わせのような感想を書かせていただきます。たぶん。

■ iPhoneで撮った写真が逆さまになってしまう現象にちょっとだけ困っている。



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# by gomaist | 2012-11-11 01:16 | 演劇


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