「 扇情とは別の/バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想3 」


■ 『Very Story, Very Hungry』における『ドン・キホーテ』は水面下に潜るようにしてその後次々と脈絡なく立ち現れる物語の断片の隙間から時折顔を出し、それら断片を相互に繋ぎ合わせるようにしながら作品は進行していく。<ドン・キホーテ>が目指す町、理想郷を思わせる土地で暮らす人や動物たち、男女、聖書の一節の朗読(そう、もうひとつの大きな物語として引用されたのは聖書だったのだ)、個人の記憶などが一人数役の役者によってバラバラに現れるのは前作『Rock and Roll』を思わせる語り口だが、断片が断片のまま放り投げられたものもありつつ、前作とちがうのはたとえば直接関連を持たない断片と断片の台詞が符号してパッチワーク状に、あるいは飛び石を渡って岸に向かうように、あるいは空に散った星の光が結ばれ星座を描くように、敢えて強い筆圧の輪郭ではない軌跡によって物語は紡がれていった(と思う)点だ。物語ることが大小の弧を描き、生きることの実感に触れたり触れなかったりしながらラスト、暗転後に下手から舞台の中央に静かに歩み出てきた役者が様々なシーンの台詞に繰り返し登場していた牛乳の瓶をゆっくりと一息に飲み干す。私はその物語を持ち帰ることが出来なかったが(忘れちゃったから)、あの場で受けた感銘はいまも記憶に残っている。

■ 少々話は迂回しますが。私自身このブログでも特に震災と原発事故(福島第一原子力発電所の事故は東北地方太平洋沖地震と関連はあっても一括りにしてはいけない)が起きてから「希望」という言葉をしばしば書いてきた。ある音楽の感想で「希望がある」とか人々の言動に触れて「希望を感じた」とかなんとか、そんな感じで。しかしいま現在、安易に「希望」などと言いたくはない気持ちでいる。そもそも失うほどの希望がそれまでの自分にあったのか、あの日以来希望を失ったのかどうか怪しいし、希望があるから生きているのか、ではなかったらどうなるのか、死ぬのか、死んだとして、命を奪うほどの希望のありようにも実感を持てなくなっている。いま「希望」という言葉には免罪符的な耳障りのよさと「まあ、なんかわかんないけどうまくいくんじゃね?」というごくごく軽い意味合いしか見いだせない。そこに持たせようとしていた重力とはずいぶんかけ離れてしまった(最初からかけ離れていたんだろうけど)と感じている。

■ 9月に神奈川芸術劇場で観た快快の『りんご』も「物語」についての物語、舞台だった。『りんご』についてはいろいろ思うところがあったがここでは書かない。そのなかで作品のコンセプトであり、メッセージの核であったとも思えた、キーとなる台詞に<物語には希望がある>というものがあった。『りんご』もまた「物語」を舞台で記述することへの意識的な挑戦であり宣言でもある作品だったのだが、しかし、いやいやそれにしたってそれは口にしてはだめなんじゃないかと思ったのだ。私はいますぐ死にはしない。少なくとも1時間後、明日、明後日、来週、来月くらいは生きているだろう。そうなんとなく信じていること。それもまた「物語」だとしたら、人は「物語」なしには生きていけないというのはそうかもしれない。きっとそうだ。人は「物語」に生かされている。だから<物語には希望がある>(と信じたい)のはわかるが実態のない「希望」は実態のない何かで表現すべきだ。「愛がある」と、「愛してる」と、いくら言葉にしてみたところで愛の証明にはならないのと同じように。それでも「愛してる」と繰り返すカサヴェテス『こわれゆく女』でのピーター・フォークは愛の不在に怯えて頼るものが言葉しかないから空しい「愛してる」を、愛の自家中毒によってこわれてゆくジーナ・ローランズに繰り返し、抱きしめ、その痛々しくも滑稽な姿が胸を打つのだし、園子温『希望の国』のタイトルに見る反語的な「希望」もまた希望がないことを前提として成立するものであって、作中で神楽坂恵が言う「愛があるからだいじょうぶ」もまったく根拠がない、ただそれでもそう言うしかない切実さにこそ「希望」はかすかに、ごくごくかすかな光をもって響くのだと思う。

■ それを踏まえた上で敢えて言うと『Very Story, Very Hungry』は「希望」を探す物語だったと思う(結局「希望」言ってますが)。「希望」は「物語」であり「町」であり「牛乳」であり、人と人の交流であり、しかし何が「希望」かはわからないままに、人物は旅をして、文字通りに舞台上を激しく移動し、肉体を動かし、私たちの眼前で「いま」を過去に書き換えながら、未来のどこかにある希望の痕跡を追っているかのようだった。牛乳をゆっくりと一息に飲み干す。あのラストシーンが美しく感動的だったのはそうした過程があったからであって、『りんご』のそれを一概に否定するつもりはないが<物語には希望がある>という台詞に集約させてしまう扇情とは別の感興がそこにはあったと思う。

■ いま軽いデジャヴュ感があったので思い当たるとこを見てみたら、前作『Rock and Roll』の感想でも同じようなことを書いていた。

「いま」にこだわりながら刹那主義と決定的にちがうのは「いま」に希望を見いだそうとする態度だ。直線的にせよ円環的にせよ物語が宿命的に抱える不可逆な時間が取りこぼしてしまう希望、あるいは偽りを纏ってしまう希望、語ることで不透明で不確かになってしまう希望。しかし絶望も希望も喪失も獲得も断絶も理解も取り混ぜた神話から日常会話までの物語を物語になる寸前で切断してシャッフル/再構成することで今野氏の言葉によれば<感触>を抽出していく。その<感触>のなかにほのかな希望が託してある。おそらく作者や演者にも確信はなく、それこそ希望の希望だと思う。

■ と、ですね、ここまで書いたところで新展開。バストリオ今野さんから台本を読ませていただけるという、思わぬ連絡がありました。こんな感想を読んでいただけるだけでもありがたいのに、そのような反応いただけるとはまったく光栄なことで、ぜひ読ませてもらえるようにお願いしてみた。たぶんあまりにも私が「忘れた忘れた」書いてるから「なんだこの人は」と呆れて、いい加減な感想書き散らさずに台本渡すからちゃんと内容に合ったの書いてよ、という含みもあるかと思うので、台本読ませてもらったらまた感想書こうと思う。もうちょっと『Very Story, Very Hungry』のほんとに近い感想を。

■ とはいえ、忘れてしまった『Very Story, Very Hungry』もまた私とっての『Very Story, Very Hungry』観劇の体験であって、もう少々このまま書きたいこともあったのだけれど、せっかくだからここで一端終わりにして、台本をいただいたら読んでみて、それからサイトに上がっているキャストやスタッフのみなさんのインタビューも改めて見たり、なんなら他の方が書かれた評なんかも見たりしつつ、もうひとつの感想は書かせてもらおうかと思っている。

■ 台本読んで全然記憶とちがっていたらどうしよう。とりあえずはあやまろうか。


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# by gomaist | 2012-11-02 12:51 | 演劇

「 11月/バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想2 」


■ 以下を書いてすっかりアップしたつもりでいた。テキストファイルには“1016”(10月16日)とある。観たものの内容どころか自分の行為も忘れているダメさ。しかもまだ続くという…。

■ バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想の続きです。続きですがまた間が空いてしまったのは前回も書いたけれど、あれからいくら思い出そうとしてもほんとに内容を思い出せなかったからで、なんというかたいへん申し訳ないです、としか言いようがなく、しかしもちろんこれは義務で書いているわけではないから謝るのもおかしなアレではあるのだけれど(今野さんには「書く」とはっきり言いましたし、それは間違いなく言ったので、自分なりの約束としてずっと心に引っかかっていたのは確かで、今野さんはどういうお気持ちでか「待ってる」とは言ってくれてるしなあ、と「義務感」まではいかないものの、人として書く「べき」だろうという気持ちがなかったわけではない。なので、忘れちゃって申し訳ない、というのは「あんなに素晴らしいものを見せていただいたのに…」という今野さんはじめバストリオのみなさまに対して小さく感じている気持ちです、と一応おことわりしておきます)、あの作品については書き残しておきたいと強く感じて、書きたいこと(それはさすがにある程度覚えている)があったからこそ、いまもこうして書いているわけでして、しかしなあ、話は忘れちゃったんだよなあ。

■ 前置きが長くなりましたが。忘れたことは忘れたまま、記憶違いもかなりあるかと思うが記憶違いは記憶違いのまま、すでに誰かによってどこかに書かれているはずの『Very Story, Very Hungry』評などを参照することなく、ある意味身勝手に、ともすれば私家版『Very Story, Very Hungry』、『Very Story, Very Hungry』俺re-mix、が現れてしまうのも厭わずに、前回内容についてはほぼ触れることなく終えた『Very Story, Very Hungry』の感想を、では、続けます。

■ メモ。あるいは仮説めいた覚え書き。あらかじめ語ることができない物語としての『Very Story, Very Hungry』。メディアとしての物語ではなく、インターフェイスとしての物語。

■ 入場時から舞台美術が露になった横長ステージの上手奥、私の席からはほとんど見えないそこに天蓋風の薄い布が下がり、幾人かの出演者が床の布団に寝ているところ舞台は始まる。20世紀初頭の豊かな欧米のイメージかデコラティブな応接室を思わせるセット、観葉植物、大量の服が掛かった移動式ラック、古いテレビモニター(ラジオだったかも)、ビニール製簡易プールとその上に天井から提がったビニール傘、三角屋根の小さなテント、ギターとアンプ、思い出せるだけでもそれらのものが舞台には点在しており、時間と空間が限定されない場として設定されていることがわかるが、関連性の希薄なモノがそうとわかるように過度に置かれていたせいだろうか、そこ/ここは「過去」か、と感じた。モノは「過去」を内包し、そこに属するものだから。

■ 芝居がかったふうに喋り出したのは(芝居なのだから芝居なのは当然だが「いかにも」な芝居として、つまり何かを演じているものをわからせるように)セルバンテス『ドン・キホーテ』の登場人物たち。『ドン・キホーテ』とはいきなり意表を突かれたが「意表を突かれた」と感じたのは『ドン・キホーテ』にはメタフィクションの祖というイメージがあって、実は読んでいないので周辺の情報から形作った推測でしかないのだけれど、メタフィクションをベースに敷いて語るとは予想していなかったからだ。しかし『ドン・キホーテ』はすでにしてメタフィクション構造をもっていた近代小説の祖でもあるわけだから(つまり小説は物語についての物語という批評性をもって誕生した。というのは知ったか情報ではあるが、『我が輩は猫である』もメタ構造の小説であることは近年読んで知った)、「物語」をテーマにした今作の本気度も同時に感じた。いよいよ真正面からきたぞ、と思った。その冒頭にはベタの予感があった。

■ 橋本和加子演ずる<ドン・キホーテ>はしかし、女性の姿をしているばかりか台詞の語尾に「ずら」を付ける者だった。女性であることに引っかかりはないが「ずら」はそうはいかないだろう。なぜこの<ドン・キホーテ>は方言である「ずら」を使うのか。ずら→コミカル/戯画的な発話→方言→静岡?山梨?群馬や長野のほうでも使った気がする→殿馬(ドカベン)→秘打→指の間を切る手術を受けている。ピアニストを目指した過去あり。→その指を活かしてワンポイントでフォークを投げたことがある。観ながらそんな連想をしたくらい「ずら」にはすごく引っかかったが、いまの連想でいうと静岡以降は本作における<ドン・キホーテ>の「ずら」とおそらくは関係ない。

■ <ドン・キホーテ>が原作のように妄想に取り憑かれた者だとするならば、彼(彼女)は空想の町を探して地図を頼りに旅に出るという。町の存在を否定し旅出を止める<ロシナンテ>と<サンチョパンサ>。夢見るように理想の町の様子を語って制止を聞かない<ドン・キホーテ>が「ずら」言葉=方言を使うのは彼(彼女)は道化であると同時に中央から疎外された周縁の者であることを示している。騎士道譚への風刺でもあった原作のドン・キホーテが妄想者としてトラブルを起こす滑稽な存在であった(と想像してます)ように、これから「物語」を担うことを匂わせる<ドン・キホーテ>もまた同様であり、威勢ばかりいい惚けたように見える者として現れるが、しかしそれを観る私たちは彼(彼女)の語る町がきっと実在すると感じる。原作を少しでも知っていたら、それは<ドン・キホーテ>の妄想だと考えるのが筋なのに私はそう思って観ていた。

■ ひとつには橋本和加子がそのように演じていたからだ。彼女の思いは遂げられるであろう、まだ見ぬ町への希望はそう観客に信じさせるように語られていた。もうひとつの理由は本作が「物語」の物語であるという以上はそのような結末が用意されていてしかるべきだという観る者の期待が反映されていたからだと思う。<ドン・キホーテ>の語る町の存在は「物語」の可能性の是非を問うアナロジーで、だからそれは肯定されるに違いなかった。とはいえ、着地点が予定調和のなかにはないことも期待していた。「物語」の可能性の肯定はある「地図」に関わっていて、<ドン・キホーテ>のいう「地図」とはつまり物語の祖としての『ドン・キホーテ』を下敷きに幕を開けたこの作品そのものであろうと推測できたからだ。冒頭数分間のシーンには単純なメタ構造に逃げず、「物語」のための物語に回収されない(であろう)仕掛けが見て取れ、その先の展開に期待させられた。

■ ところで<ドン・キホーテ>が戯画的な方言を使う地方の者であったこと、それは原作からの援用かもしれないが、穿った見方をすればそこに反中央集権の主張が重ねられてはいなかったか。もっといえば、震災以降いっそう露呈した中央集権システムの欠陥と欺瞞性、日常生活の脆弱さは瓦解した「物語」の姿であり、それを撃ち奪還する役割として<ドン・キホーテ>を反中央の周縁者、地方の者に設定したのではないだろうか。

■ どのように「物語」を。「物語」の何を。肯定するか。なぜいま「物語」なのか。そのための作品の「地図」はそうして広げられたように見えたが、その後のめくるめく展開/転回に私は迷い子になっていくのだった。結果をいえば、しつこいほど書いてますが、私は物語を持ち帰ることができなかった。本を手にするように、データソフトを持つように、脳内に『Very Story, Very Hungry』の物語はフォーマット化されなかった。私がバカであるのを棚に上げさせてもらうと、つまり『Very Story, Very Hungry』が提示したのはメディアとしての物語ではなかった。のだと考えている。あの場にしかなく、あの場で、作品を接触軸に、作品と観る者が変容して、そして消えていく、インターフェイスとしての物語だった。と思ったりしているのだ。

■ 11月。前回からちょうど1カ月経ってしまいましたが感想は続きます。こんな更新頻度ではありますがブログはやめませんので。見てくださっているみなさま、ありがとうございます。

■ ゴマも元気です。



なー、ゴマ。d0075945_122932.jpg


*橋本さんのお名前を間違えておりました。
 訂正済みですが、
 正しくは「橋本和加子」さんです。
 大変失礼いたしました。(12.11.2)

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# by gomaist | 2012-11-01 12:10 | 演劇

「10月になってしまった/バストリオ『Very Story, Very Hungry』感想1 」


■ 9月は一度も更新しないままに10月になってしまった。しかもいまや演劇感想ブログのようになっておりますが、一カ月ぶりの更新も演劇の感想です。前回の記事を書いた日、8月31日に横浜のBankArt Studioで観たバストリオ『Very Story, Very Hungry』

■ BankArt Studioは古い建造物をリノベーションしたアートスペースで、剥き身のコンクリートに巨大な柱、鉄製の扉などから元倉庫か何かかな…となんとなく思いながらこれまでも何度か訪れていたが、1929年に建てられた銀行だったことはたったいま調べて知った。しかし「1953年に竣工された港湾倉庫時代の姿をとどめるコンクリート打放のハードな空間」とホールの説明がサイトにあったので、その後やはり倉庫として使われていたということか。それはともかく、分厚いコンクリート打ちっぱなしの空間に音が反響する上「床面積360㎡、天井高5m」という比較的大きなハコをバストリオは新作公演の場に選んだ(たぶん、「選んだ」のだと思う)。

■ 「選んだ」と仮定してさらに勝手な想像をすれば、ひとつには空間そのものに「物語」を求めたのではないかと思う。時間が蓄積された場の力を作品に付与しようとした、あるいはそうした場で物語ることによる化学反応を意図したのだろう。タイトルにも冠されているように今作のテーマは「物語」。それが物語そのものを物語ることなのか、物語についての物語なのか、物語の批評なのか、それは観るまでわからなかった。ただ前作『Rock And Roll』で「物語」を解体し分断して逆説的に「物語」の可能性を試行して見せた主宰で作演出の今野裕一郎氏は公演後に「次は物語をやります」という意味のことを言っていて、それを私は「物語の中から語る」という意味に取り(あとでまた書くが実際に観終えて主軸はやはりそこにあったのでは、と感じた)、今作の観劇にはそうした期待というか先入観をもって臨んだ。

■ BankArtを選んだ理由と思われるもうひとつは空間の不自然な広さ。私が初めてバストリオを観た前々作『絶対わからない』は千駄木の住宅街にある民家(アパート?工場?)を改築したスペースで、前作『Rock And Roll』は新宿眼科画廊(元病院ではない)というギャラリーだったが、どちらも少し変わった意図的な使い方をしていたのは舞台を横長に設定していた点で、どの位置の席に座っても舞台上で行われていることを同時に視界に収めることができないようになっていた。左端で喋っている役者を見ているときに右の奥に立つ役者の動きを見ることはできないというように、意図的に全景の把握を拒むつくりがなされていた。今作にもおそらくそうした意図があって、組み方によっては通常のように観られる舞台づくりも可能だったはずだがそうはせず、横長に雛壇状の客席を設営した上に客席と並行した横にまで舞台美術があり、しかも巨大な柱数本が演じるスペースとしての舞台に鎮座しているのだから、過去作以上に全景が見えなかったのは当然あえてそうしたのだろう。だから「不自然な広さ」とは通常の舞台作品を基準とした不自然さであって、「人は全景を視ることはできない」舞台外の世界を人工的にそこに出現させるためには自然で必然の選択だったと思われる。(会場は空調が機能せず残暑厳しいなか相当な暑さとなっていて、扇風機の設置や団扇の配布で対応していたがさすがにそれは想定外だったろう。「暑すぎる」という不満の感想も散見した)

■ ここまで会場について書いて、さて本編の話へ、というところでムムム…となった。忘れている。セルバンテス『ドン・キホーテ』の引用というか設定を使って始まった『Very Story, Very Hungry』の、そこからの展開が断片的にしか思い出せない。観たのは一カ月前で、こうして時間が経ってから感想を書こうとしたときにはありがちだが、感想を綴る手がかりがないほどに忘れてしまっている。覚えていることがすべてならその記憶だけで感想を書くか、もしくはわざわざもう書いたりしないのが筋だとも思うが、さらに記憶を手繰り寄せていけば、観劇直後でさえ果たしてどれほどの記憶が残っていたかも怪しいことに気づく。つい先ほど「物語の中から語ることに主軸があった」と核心めいたことを書いたばかりなのにその「物語」を覚えていないというのはどういうことだ、そもそも作り手に対して失礼な話じゃないか。私は上演後の会場で今野氏に「すごくよかった」と意志の強さを感じさせる彼の大きな目を見て言っているのだ。「感想書きます」とにこやかに言い放ちながら実はすでにあの時点で内容をほとんど忘れておりました、ではあまりにもあんまりだ。

■ しかし、この観ているそばから記憶の編み目をするすると抜けていってしまうような、そこに『Very Story, Very Hungry』のおもしろさがあったとしたらどうだろう。忘れしまった言い訳でも後付けの屁理屈でもなく、つかまえたと思った物語や光景は乾いた砂粒のようにみるみる零れ落ちるが、BankArtの空間に激しく反響した台詞や音楽がそうであったように、テキストや役者の身体、ダンス、美術の残響に五感で対峙するような体験が『Very Story, Very Hungry』だったのではないか。そこには演劇作品において「物語」を記述する困難と、それがわかっているからこそ過去作で時間と労力を費やして迂回してきた(ように感じられた)今野氏=バストリオの真摯な態度と格闘が見られるというのは作品の余白(悪く言えば隙)に親切に歩み寄り良きように解釈しすぎだろうか。私には『Very Story, Very Hungry』の「物語」について語ることはできない。もしかしたらあらかじめ語ることはできないものとしてその「物語」は舞台に現れていたかもしれないにしても。しかしたしかに「物語」はあったのだ。

■ また長くなる予感。続きます。記憶は日々薄れてゆくのでなるべくすぐに。



なー、ゴマ。d0075945_2293270.jpg

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# by gomaist | 2012-10-02 22:15 | 演劇


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