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「 世界はつながっているし分断されてもいる/『マームと飴屋さん』の感想1 」


■ 私たちの視覚はカメラではない。目に見えるモノ=対象物ではないという意味で。カメラは認識はしても知覚はしない。人には恣意的なフォーカスや見落としもあるが、知覚能力によって見えている以上のモノを見ているし、見たモノを複雑に加工しながら記憶に留め、さらに記憶は流動的で常に変化更新されていく。1週間前の6月3日に清澄白河のSNACで観た『マームと誰かさん・ふたりめ/飴屋法水さんとジプシー』(以下、『マーム×飴屋』)についてあらためて考えながら感想を書こうとしてまずそんなことを思った。

■ 会場のSNACは古い民家をリノベーションしたギャラリー。通常は閉じられている引き戸が今回すべて外されて中は丸見えで、そこには事故で廃車になったことを思わせる鮮やかな黄色のスポーツカーが頭から入っていて、コンクリートの床にフロントガラスや部品が散乱しているのが見える。ボンネットがない車の後部には蚊取り線香が置かれ煙とともに香りが流れてくる。さらにSNACに面した車2台分くらいの幅の道の向かいには古い型のライトバン(これもくすんだ黄色)が停められていて、演出の藤田貴大氏がエンジンの掛かりを確認したりするのを見て、作中になんらの形で組み込まれるだろうことが想像できた。開場は開演1時間前の15時。演劇作品で開場から開演までそんなに長い時間を取ることは異例だ。

■ と、ここまで書いてまた時間が経ってしまった。いまは6月13日。2012年6月13日、2012年6月3日に観たものについて続きを書きます。

■ 演劇作品では生身の人間が観客の目の前で演じる、あるいは何かをして見せるのが基本形で、しかしそれは普通に考えればかなり珍妙なことだ。そういう約束事だから、と演者と観客の双方が自明だと考えたとしても(私は自明だと考えていないが)唐突に目の前に現れた人間が「どうして? ねえ、どうしていつも黒い服なわけ?」などと語り出す際に生じる日常とのギャップは甚だしい。演劇作品を観るとき、この演者と観客の間に横たわる溝、温度差をどう処理するのか、そこに興味がある。舞台と客席は別世界、と開き直った線引きをするか、温度差をなくし境界線を消すことに腐心するか。極端な例では「実は観客であるあなたがたが演者であり観られる存在なのです」と約束事を逆手にとった扇情的な作品もかつてあった(らしい)。おそろしい。そんな作品は絶対に観たくないよ、私は。いずれにしてもここで作り手が企図するのは観客の意識を舞台上(観客席も舞台となる場合があるので演じる場としての広義の「舞台上」)で起きる出来事に投影させ、リアリティを感受させること、作品世界への導きにあると思う。

■ たとえばこれまで観たマーム作品では入場するとすでに舞台上に普段着っぽい衣装の演者がいて、黙々とストレッチをするなどしていた。これからここで起きることは観客と同じ空間、同じ時間にいる人間が行うものであるということを体感的に示されることで、緩やかに境界線が溶けるのを感じながら作品世界へと入って行った。しかしそれでも開演までの時間は20~30分程度の、客が入場して着席するなどに最低限必要だろうと思われる長さであって、今回の1時間には明らかに表現に関わる意図があると事前に知らされたときから予想はしていた。

■ 『マーム×飴屋』が取った開演までの1時間は観客を作品世界へと導くための時間であるとともに、作品としてすでにそこから始まっていた。開場と同時に壊れたクルマを避けるように床のフロントガラスを踏んで中へと入り壁を背に会場内をコの字に囲んだ席に着く。開場前からごく自然に準備する姿を見せていた飴屋氏や藤田氏はじめ、スタッフの人々と同じように観客の動きは開場後も制限されることなく、クルマに顔を近づけて見る者もいれば、席に荷物を置いて外に出て行く者もいる。外といっても先ほども書いたように会場には扉はもちろん外との仕切りがないので、たまたま前の歩道を通った人や近所の子ども、一方通行の狭い道のわりには交通量が多いクルマが走って行く様子は中から見えるし、当然向こうからも見えるので、通行人はたいてい覗いていくし、なかにはしばらく立ち止まって見ている人もいる。サンプラーやミキサーなどの音響機材が乗った机に着いた飴屋氏は場内に蝉時雨の効果音を流しすぐにまた外に出て、知人らしき客と挨拶をしたり体をほぐしたりしている。

■ 6月はじめ、土曜日の15時すぎ。一瞬だけ雨が落ちたが陽射しがあって穏やかな陽気の日だった。何度もSNACに来るうちに少し知った清澄白河の町の生活感が席に座っていても感じられた。しかし目の前にはありえないはずの壊れたクルマがあり、それを(ここで起きる何かを)観に来た人がいて、何かを起こそうとする人がいて、それをまったく知らない人がさまざまな表情を見せながら行き交っていて、6月なのに蝉時雨が聞こえている。開演を待って外で話す客や通行人を照らす陽射しに目を向けていると蝉の声が外から聞こえてくるようにも錯覚して、わかっているのにますます時空の感覚が歪んでくる。そこに今作の出演者である青柳いづみが鮮やかな青いシャツに黒いスカート姿で奥から私の横を通って現れ、会場内を歩き、壊れたクルマのシートに座ったり外を眺めたりして、時折座っている客を見渡すように視線を送ってくる。また飴屋氏と子ども(飴屋さんの実娘で5歳のくるみちゃん)がチョークで床にリンゴの絵を描いたり(ここまでの数公演で描かれた跡も残っている。青柳さんも描いていた)と、これらが開演前の演出として行われ、1時間かけて体感することでゆっくり体に入って来たのは、私が座っているこの空間は固有の場所であっても特別な場所ではないということ、あるいは外に見えている風景が特別な場所になるかもしれないし、ならないかもしれないという、激しく視座が転倒して混濁していく感覚だった。世界はつながっているし分断されてもいる、そうさせているのは人の意識だとそのときの私は考えていた。

■ これすごく長くなりそうなので今回はここまでにします。



なー、ゴマ。「 世界はつながっているし分断されてもいる/『マームと飴屋さん』の感想1 」_d0075945_0455265.jpg

by gomaist | 2012-06-15 01:03 | 演劇


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