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「鎌倉の人がやるらしいよ」

苗場から帰った翌日、つまり昨日、
仕事の話をしている時に会話の文脈が飛んでしまって、
相手の言ってる意味がわからず、戸惑った場面が何度かあった。

「鎌倉の人がやるらしいよ」

唐突にそう書いたところで、
さっぱり意味がわからないのと同じくらいに、
それまでの会話とどうつながって
「鎌倉の人がやるらしいよ」なのかまるでわからない。
鎌倉の人? それが何をやるんだろう?
だいたいなんで「鎌倉の人」って地名入りなんだ?
で、私は魯鈍のように言う。
「それ、なんの話?」

毎年フジロックが終わると、「鎌倉の人がやるらしいよ」_d0075945_2314864.jpg
祭りの余韻を引きずったまま、
今年も半分終わったなあ、
という気分でしばらく放心してしまう。
ただでさえ、放心が日常化している私なので、
そんなことで放心の開口度を
いっそうアップさせてる場合ではないんだけど、
しかしねえ…夏なのかね、これで(放心)。

【今日の一作】
『三月の5日間』/チェルフィッチュ
演劇です。年に1〜2回観るか観ないか、なので、門外漢ではあるし、
「今日の」という意味では、今年3月に再演を観たもので、
ちっとも今日ではないんだけど、
今年前半に触れた音楽や本や映画や美術などの中でも、
最も感銘を受け、しかもとても刺激的で、
「ああ、こういうのをクリエイティブって言うんだよなあ」と
思わされたものだったので、まだ覚えているうちに書いておこう思う。

ストーリーは、その日に出会った若い男女が、
渋谷のホテルに5日間ほぼ閉じこもってセックスしてたという話を、
当人とその周辺の人間が語るというもので、
遠景として(セリフ中、または渋谷の反戦デモに参加する男たちを通じて)
アメリカ軍の空爆に始まるイラク戦争が配されている。
だからこれは2003年の「三月の5日間」ということになります。

事前にそのストーリーを知って思ったのは、
「戦争=非日常」と「渋谷の男女=日常」の対比なら、
ちょっと凡庸じゃないかということ。
それを「ああいうセリフ」で演じるわけだ? おもろいのか、それ、と。
岸田戯曲賞を取ったということだったけれども。

で、結果として、これが自分にとって
2006年上半期を代表する出来事のひとつとなるほどに、
とんでもなくおもしろく、
新しい輝きを放って見えた芝居だったのです。

チェルフィッチュの特異ともいっていい特色は、
役者のセリフまわしにあって、
それは会場となった六本木SuperDeluxeのコンクリートのフロアに、
ほぼ同じ高さの客席の合間からふらりと現れた、
そこらへんにいる若い男の風体をした役者によって、こんな風に語られる。

 それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、
 まずこれは去年の三月の話っていう設定で
 これからやってこうって思ってるんですけど、
 朝起きたら、なんか、ミノベって男の話なんですけど、
 ホテルだったんですよ、朝起きたら、
 なんでホテルにいるんだ俺とか思って、
 しかも隣にいる女が誰だよこいつ知らねえっていうのがいて、
 なんか寝てるよとか思って、っていう、
 でもすぐに思い出したんだけど、「昨日の夜そういえば」っていう…
            <『三月の5日間』/岡田利規(白水社)より>

これね、実際に見ないと、感じがわかりにくいと思うんですけどね。
ただこうしてシナリオの一部を引用するだけでも、
これまでの演劇のセリフではないぞ、という単純な驚きがまずある。
さらに言えば、そこに現れた役者の雰囲気というか、
佇まいがもう普通じゃない、いや、普通すぎて普通じゃない。
だからって、普通の人がそこに立っても絶対出ないムード。

でも、ちょっと待てよ、と。
この超口語体ともいうべき、役者のセリフは、
人が話しながら無意識にやってしまう動き
(たとえば、手を顔の前で振ったり、自分で自分の体に触れたり、
足を曲げたり)を伴って発せられるのだけれど、
痙攣的なダンスとも評されるその動きが、
日常にありがちなクセの模写に止まらず、
あきらかなデフォルメとして見られるように、
一見リアルなセリフもまた、まさに「超」口語体として、
巧妙にエフェクトが掛けられたものじゃないか。
つまり若者のリアルな言葉とは似て非なるものなんですね。

過去の演劇的なセリフに対抗するものとしてあった、
私のおおざっぱな理解では
「だって、普通そんな言い方しないでしょ?」
と、日常に使う言葉と発声を舞台に出現させた
平田オリザの口語体とは、
そこが根本的に違うところなのだろうと思う。
(その延長線上に現れたものだとしても)

現在形の若者言葉を採用したことが新しいわけじゃなく、
いま現在の若者が口にしそうなリアルな言葉/身体の意匠を纏った、
あるいはそのエッセンスを抽出し構造解析を経て、
特殊なコミュニケーション装置として改造を施した、
いままでにない演劇言語の発明。
そこがとんでもなく新しい輝きの光源なのではないでしょうか。

で、表面的には日常の批評的な模写という、
時に居心地が悪くもなるアウトプットによって、
しかし、ここも肝心だと思うんだけど、
笑いも内包した極めてポップでかっこいい装いによって、
「戦争」といった大文字に対する批評性から、
日常に零れ落ちる細やかな感情(何度か涙しそうになったことを告白します)、
ふっと頭に浮かんで、でもすぐに消えてしまう思いや考え、
人と人との関係/距離にあるせつなさや喜びやおかしみ、
そういったものを直線ではなく、多重的に偏在するように編み込み、
既製の物語の枠組みや演劇の言語では表現できない世界を
創りだしているのだと思います。

イラクの戦争とシブヤのセックスは、
単純に対比されるわけではなく、
断絶しつつも接続しているという矛盾を孕んだ、
それこそリアルな何かがそこにはあった。

もちろん、まず単純におもしろさがあって
(ダラダラを装ってるから見えにくいけど、
物語の構成というか、語りの運びもすごく緻密だと思う)、
しかも普段あまり使わない頭を刺激されて、
そんなふうなこともいろいろ考えさせられた上で、
冒頭の「こういうのがクリエイティブっていうんだよな」という
大きな感銘へとつながったわけです。

長くなりました。整理がついてないせいです。
続きは次回チェルフィッチュ作品を観た時に、
気が向いたら書くことにする。

もしも猫による猫のためのチェルフィッチュが実現するとすれば、
毛繕いやツメ研ぎ、腹見せ、前脚のフミフミが
会話とともに繰り返されることになるのだろう。
あるいは先ほどまで跳び回ってた演者が
舞台上で体をまるめて眠ってしまう。
あたかもかつての前衛的な芝居のようだけれども、
それが猫による猫のためのチェルフィッチュなのだから、
仕方あるまい。

客もまたある者は座席間を駆け回り、ある者は物陰で睡眠中だ。
かと思えば、二階席から薄目で舞台を見下ろしている者たちがいる。
ただ問題なのは、それでは町で見かける猫の集会場と
まったく変わらないという点だろう。
しかしそれが猫による猫のためのチェルフィッチュなのだから、
仕方あるまい。

なー、ゴマ。
by gomaist | 2006-08-03 01:11 | 演劇


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